1の2.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ 十六節 神のための人間の自由 二 聖霊、啓示の主観的可能性』について(その2)
【なお、引用個所の〔〕書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である】
啓示の主観的可能性
「ここで今、われわれは、啓示の主観的な<可能性>を問う〔「十六節 神のための人間の自由 二 聖霊、啓示の主観的可能性」を問う〕」。「すなわち、それは、われわれが、啓示の<客観的な>実在〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<必然性>」としての<客観的な>その「受難と死〘「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死〙および復活〘「神の恵みの啓示」、勝利の福音、神的な然り、生〙の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」、その「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、この「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神してまことの人間>イエス・キリスト自身〕について語られたことを、その実在そのものを通して問うよう召し出されている問いに対する答えとして理解しようと試みるということである〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>「啓示の実在そのものの中に起源を持っている問い」に対する答えとして理解しようと試みるということである。換言すれば<客観的な>イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の枠組みの中での<客観的な>「啓示の実在そのものの中に起源を持っている問いに対する答えとして理解しようと試みるということである」、詳しく言えば<客観的な>「存在的な<必然性>」――すなわち、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」――すなわち、<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が生じてはならない」し、聖霊によって更新された人間の理性性も聖霊と同一ではないのであるから、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された<主観的な>人間の理性性という<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の枠組みの中での<客観的な>「啓示の実在そのものの中に起源を持っている問いに対する答えとして理解しようと試みるということである」〕」。何故ならば、聖書の中で証しされている「自己自身である神」としての自己還帰する対自的で対他的な完全に自由な聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質)――すなわち、神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての<イエス・キリストの父>、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての<子としてのイエス・キリスト自身>、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての<神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊>なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>――における神の「第二の存在の仕方である神の<子>あるいは神の<言葉>」、「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト――すなわち「啓示の<客観的な>実在は、それ自身からして理解されることを欲している」からである。すなわち、「啓示の<客観的な>実在そのものが、事実、それを問うようにと呼びかけ招き促している問いを手掛かりにして理解されることを欲している」からである〔ちょうど聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれに対して、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)、詳しく言えば聖書の中で証しされている「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質)――すなわち、神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>――における神の「第二の存在の仕方」の問題を要求しているように〕」。われわれは、聖書の中で証しされている<客観的な>イエス・キリストにおける神の自己「啓示からしてだけ、聖霊の業が、神は、人間に対して<啓示されてあること>〔すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)としてのそれ〕が<できる>ということに<味方して>語っているということ、またただ啓示だけが、人間は、人間に対して<啓示されてあること>が<できない>ということを語っているということ〔したがって、一般的な啓示、一般的な真理、「存在の類比」、「『自然』神学」を目指すことに反対して語っているということ、換言すれば聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「『啓示』神学」を目指すことに味方して語っているということ〕――この両方のことを、ただ啓示からしてだけ語ることができる。神の啓示が人間の身に起こること〔すなわち、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられること〕ができるということがどのように可能となるのかという問いに対する根本的な答えは、そのことはただ〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中で主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊の注ぎの中でだけ実在であるのであるが、ただ〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中で主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊の注ぎの中でだけ可能となるということである」。
(二)
神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>」としての「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〔換言すれば、<客観的な>「存在的な<必然性>」〕の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(換言すれば、<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」――この「<聖霊の注ぎを通して>、<啓示の中で、神の言葉を通して、そのようなことが出来事となって〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で、〕彼の身に及ぶに際して、聖霊がわれわれに〔一般的な啓示、一般的な真理、「存在の類比」、「『自然』神学」におけるような〕自分自身の可能性を持っているという考えを思いとどまらせる>から、神の啓示が〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」として<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で〕人間の身に及ぶことが可能となる」。
「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、「啓示の<客観的な>実在は〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストは〕、それ自身からして理解されることを欲している」。「啓示の実在そのものが、事実、それを問うようにと呼びかけ招き促している問いを手掛かりにして理解されることを欲している」。<客観的な>「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、その「啓示の実在に対する従順は、われわれが、〔その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼する」という仕方で、〕その啓示に従うことから成り立っている」。「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<客観的な>実在としての「啓示に対する従順、その啓示の後に従う」「了解質問は、〔それに先行する〕事実質問に対して先行することはできない。了解質問は、あらゆる事情の下で、事実質問の後に続いて問われなければならない〔ちょうどその「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている<客観的な>イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストを問う問いを要求しているように〕」。聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で「……<神の啓示が人間の身に起こり得るのは、どのように人間の自由〔すなわち、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕の中で可能であるのか>という了解質問に対する答えは、人間は、〔「神的愛に基づく〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〙<父>と〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〙<子>の交わり」である「父ト子ヨリ出ズル御霊」、この〕父と子の聖霊〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊」〕を通して、〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」として〕神に向かって自由である」、という点にある。このことから、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(換言すれば、<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(換言すれば、<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とする(簡潔に言えば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての〕啓示の<主観的な>実在は成り立っている」。このような訳で、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト、この<客観的な>実在としての「啓示の中で明らかとなる神の言葉は、人間が神に相対して<不自由>であることを宣言する」――「このことは、すでにそこで啓示されるようになるところのものがほかならぬ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕神の言葉あるいは神の子でもって語られている」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「<神の>子あるいは<神の>言葉」としての「神ご自身が、〔<主格的>属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、イエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にその包括的な救済の概念と同一であるイエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの(この「完成」は、「終末」、「復活されたキリストの再臨」を待たなければならない)としての〕人間の救いの主となるために登場し給う。このことは、このこと共にすでに神的判決の真理として語られている。すなわち、それは、われわれ人間が、<そのほかの仕方では>助けられることができ<ない>ということ〔それ故に、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」は、換言すれば<客観的な>「存在的な<必然性>」である。『神の恵みの選び』によれば、「イエス・キリストにおける啓示の出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」という点にある――このことを、われわれは、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および啓示の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した「信仰の類比」を通して認識(自己認識・自己理解・自己規定)する、またその「啓示認識」・「啓示信仰」に依拠した信仰の類比を通して、「神の選び〘「神の恵みの啓示」、「福音」、「神的な然り」、「生」〙をイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄〘「神の裁きの啓示」、「律法」、「神的な否」、「死」〙をイエス・キリストの十字架において認識(自己認識・自己理解・自己規定)する」〕、……神に相対してあり・でき・持たねばならないすべてが欠けているということ、……神に向かっての存在の中で……徹頭徹尾無力な人間であるということ、ただ単に病人であるというだけでなく死んだ者であるということである。世は事実失われ滅びに沈んでいたので、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>〕キリストは生まれ給うた」。このような訳で、「……最も厳格な意味で……、ただキリストの誕生からしてだけ、〔「まことの過去」としての〕世は失われ滅びに沈んで<いた>ということは語られることができるし、そのことは是非とも語らなければならない――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世は、復活へと向かっている。このキリストの復活は〔「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>としての実在の成就された時間」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった成就され完了された個体自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、この包括的な救済の概念と同一である<すでに>出来事として起こった成就され完了された究極的包括的総体的永遠的な<平和>(この「完成」は、「終末」、「復活されたキリストの再臨」を待たなければならない)〕、新しい世〔、時間〕のはじまりである」。〔個体的自己としての全人間は、身体(肉体)と〘身体を座とする〙精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動を行うことができる、人間の自由な自己意識・理性・思惟は類的機能を持っている、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して様々な「存在者レベルでの神」を生み出すことができる、大まかにであれグーグルマップを使えば世界の観光地のほとんどを観光できる、身体(眼)の延長である高性能な天体望遠鏡や宇宙観測衛星を使えば、果てしなく遠い宇宙をも観察することができる等々〕人間は多くの点で自由であり、特別に人間的な可能性であるように見える可能性すべてを持っている。しかし、〔生来的な自然的なそのような能力を持つが故に、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、神人協力もという「不信仰、無神性、真実の罪」のただ中にあるわれわれ〕人間は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神と交わりを持ち、神と共に存在する可能性を持たない。〔生来的な自然的なわれわれ〕人間は、そのことに対して特別な可能性を持たないし、また彼は、そのほかの可能性の中でもそのことに対する能力を持っていない。この点で、人間は不自由である〔言い換えれば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を持たない〕。人は確かに、『人間であることは、神なしに存在することである』と言うことはできないが、しかし、否定的な言い方で……『人間であるということは、神と共にあることを意味するものでは<ない>』と言うことはできる。人間であることは、確かにまた、神と共にあることを意味するということは、神の側から関わってくる規定の中で、キリストにあって、〔神ご自身の決定事項として、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた〕神の言葉の聞き手および行為者として、〔聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」、換言すれば「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の実在>」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動の原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中で起こることである。このことは、〔「言葉を与える主は同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>実在としての〕啓示を通してわれわれの人間のところに付け加わって来る新しいことである、それ故に〔生来的な自然的な〕われわれ人間存在そのものの中には含まれていない」。「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えらる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」ににおいて「神の言葉が認識される時、〔その「啓示認識」・「啓示信仰」に依拠した信仰の類比を通して、生来的な自然的なわれわれ〕人間は、神に向かって不自由であるということも認識される〔換言すれば、生来的な自然的なわれわれ人間は、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を<持っていない>ということも認識される〕。〔生来的な自然的なわれわれ〕人間が、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」において〕神の言葉を認識するならば、すなわち彼が神に向かって事実〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」として〕自由であるならば、その時その認識の中に、その認識に向かっての彼の事実的な<自由>は<奇蹟>であり、したがってそれは、……ただ彼のところに来た〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神の言葉の自由に基づいているだけであるということが含まれている〔「神についての聖書的な証言」は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神とは異なるすべてのものに対して持つ神の優位性」を、「神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由〘すなわち、神とは異なる類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使してなされる人間的な「すべての外的被制約性からの神の自由」〙、「神の独立性」として、神とは異なるものとのその「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神の自存性」、「自存性としての神の自由」として、「ご自身の中での神が〘「自己自身である神」〙が、それらを〘イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〙実証することによって、その外的条件づけからの神の自由〘神の独立性〙に相対しても自由であることの中で見ている」。すなわち、「神についての聖書的な証言」は、その「神の優位性」を、「神の独立性と自存性との全体性における完全な自由」の中で見ている〕。言い換えれば、それは〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」という認識は〕、われわれ自身の自由と可能性に基づいてはわれわれは永遠に神の言葉を認識し<ない>であろうということを内容としているということである。したがって、その認識は〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」という認識は〕、ただ奇跡としてのみ出来事として起こるのであるが〔換言すれば、神ご自身の決定事項として、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられた「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した「信仰の類比」を通して生起するのであるが〕、それと同様にそれは、ただ奇跡としてのみ受け取られ理解されることができる。それだからこそ、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストにおける<客観的な>実在としての〕啓示が〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で〕われわれの身に及ぶということが可能となる<ために>、啓示が〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられるという仕方で〕われわれの身に及ぶに際して、われわれ自身の自由と可能性は何も<ない>ということが、われわれの<確信となら>なければならないのである。われわれは、〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」としての〕神に向かって自由と<なる>ために、神に向かって自由ではないということが確信させられなければならない。神の言葉の認識の<奇蹟>に対して場所が造り出されなければならない。われわれが〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」において〕神の言葉を聞くならば、その時すでに、〔その神の言葉によって、〕われわれがわれわれ自身の自由に基づいて神の言葉を聞いたのだという考えを持たないように、われわれは説き伏せられて<いる>のである〔「神の言葉の認識の<奇蹟>に対する否定と除去を意味する人間の抵抗を防御するために」、この認識と自覚は大切である〕。われわれが〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」において〕神の言葉を聞いたのであれば、その時には当然ノコトトシテ、われわれが取り上げたのではく、神のあわれみにより、神の全能の力によって、われわれに贈り与えられた〔イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っており、その言葉自身がその言葉自身の自己運動を持っているところの、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神の言葉そのものの自由以外のいかなる自由も、われわれに対して力を奮っていない」。
「また、〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」としての〕神に向かっての自由を、われわれが持っているということを、われわれが〔われわれ人間の意識によって、意志によって、意識的意志的に〕自分で自分に対し思いとどまらせるということ、それであるからその自由の否定を〔われわれ人間の自由事項、決定事項として〕自分に対して説いて確信させるということも〔その自由の否定を「自分で自分に向かって教え込む」「人間に固有な決断」、また「『神はすべてであり、人間は無であり、汝は白痴である』といった式の主張の仕方」における「人間に固有な決断」も〕、われわれのなすべき事柄ではあり得ない」。何故ならば、「その自由の否定を〔われわれ人間の自由事項として〕自分に対して説いて確信させる」ことができるとするならば、その時には、「結局、われわれが〔われわれ人間が〕、……まさにそれに向かっての絶対主権的な自由を持っている」ということになってしまうからである〔したがって、その時には、「神に向かっての自由」は、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生における「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」ではない〕。
それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという「不信仰、無神性、真実の罪」のただ中にある生来的な自然的なわれわれ人間は、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の子あるいは神の言葉」としての「神の言葉に相対してなすところのことは、常に繰り返し、われわれ人間、自分自身にその自由があると主張し、結局自分自身の可能性を信じようとする試みであるであろうし、あるいはわれわれが自分でそのような自由は自分にはないのだと説いて思いとどまらせることができる考えることによって、われわれはわれわれに対してそのような自由が自分にあるのだと思い込ませようとする試みであるであろう」。しかし、「そこで必要な思いとどまらせる力は、まさにただ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の子あるいは神の言葉」としての神の〕言葉そのものの力であり、そのように思いとどまらせることが、事実われわれの身に起こる限り、それは、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生における「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を生起させる〕<聖霊の力>である。人はよく注意せよ。言うまでもなく、まさにここでは、啓示を<啓示>として受け取り、この受け取ることを<啓示>として受け取ることとして理解することが、それであるから、人間を、決定的に実際に〔啓示の<客観的な>実在、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストによって明らかにされた〕自分の創造主、和解主、救済主としての主と直面させられた人間〔「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての<イエス・キリストの父>、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての<子としてのイエス・キリスト自身>、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」である<聖霊>なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>と直面させられた人間〕として理解することが問題なのである。また、神が、われわれにとって〔聖霊自身の業である〕啓示されてあることも、いや、まさに神がわれわれにとって〔聖霊自身の業である〕啓示されてあることこそが〔すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)こそが〕、神ご自身の位格であり業〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕であることを理解することが大切である。この〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在しての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係位と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――としての〕<啓示されてあること>が含みを持っているすべての慰め、力、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の〕真理は、われわれがここで取り組まなければならないものが〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神であるということによってかかっている。また、この<啓示されてあること>を受け取るすべての理解は、そのことが〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身と同一であるというその同一性の中で理解されるということ、それ故に神の可能性とは違うすべての可能性はそこでは全く締め出されているとして受け取られるということによってもってかかっている。〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生における〕人間は〔<客観的な>実在としての〕啓示の受領者としては、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は裁き〘「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死〙であることによって恵み〘「神の恵みの啓示」、福音、神的な然り、生〙である」ということからして、〕神の<裁き>の下に立っており、まさに<それと共に>、決してそれと別様ではなく、神の約束の下に立つようになるということ、神は人間に対して、人間のために味方しつつ代理となられ、人間の事柄を引き受けられ遂行され、それであるから人間自身のできること・意志すること・達成することを確かにそのまま消し去ってしまわれないが、しかし、神の栄誉が勝利を収め、人間が本当に助けられるべき時には人間が神のもとに従属しなければならないように、人間自身のできること・意志すること・達成することを、神ご自身のできること、神ご自身の意志すること、神ご自身の達成することに従属させ給う方として出会われるということ」――「このことを理解することが大切である」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊自身の業である「神が<啓示されてあること>は、それ自身の中に、人間を人間自身の自由という地位から引きずり降ろして、人間を神の子供の自由〔すなわち、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生における「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕という品位ある地位に任命することを含んでいることを理解することが大切である。この人間が神の永遠の恵みといつくしみを通して否定されること、ただ〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての〕神の子供として、神と人間の間の契約にあずかる者として人間が肯定されているその肯定に包括されたその人間の否定は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は裁き〘「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死〙であることによって、恵み〘「神の恵みの啓示」、福音、神的な然り、生〙である」ということからして、〕神ご自身を通してのほかには遂行され得ない。また、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生における「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を生起させる〕神の神的な可能性はまた、その中で〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、「神人協力」・「神人協働」もという「不信仰、無神性、真実の罪」のただ中にある〕われわれ人間が、常にただわれわれ人間自身の自由、可能性を遂行し、常にただわれわれ人間自身の自由、可能性を信じ込むことができるだけである囚われの状態にあることに対しても、いや、まさにそのような囚われの状態にあることに対してこそ勝利を収めるのである」。聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中で主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で「……<神の啓示が人間の身に起こり得るのは、どのように人間の自由〔「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕の中で可能であるのか>という了解質問に対する答えは、人間は、〔「神的愛に基づく父と子の交わり」である「父ト子ヨリ出ズル御霊」、この〕父と子の聖霊〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である<父>と神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である<子>の「神的愛に基づく父と子の交わり」としての<聖霊>――すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――〕を通して、神に向かって自由である〔すなわち、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」である〕」、という点にある。「そのような神の力としての〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である〕聖霊の力が、ただ聖霊の力だけが、人間の救いとなる〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>〕キリストにあっての彼の存在とその富、高揚、生命を自分と共にもたらすあの貧しさ、謙虚さ、死の可能性であり、まさにそのような可能性である」。
「われわれは、富んでいる者が天国に入るのは難しいものである。……それよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっと易しい(マタイ一九・二三以下)を読む」。「弟子たちは、このイエスの言葉の普遍的な意義についてすぐ気づいたのであるが、これを聞いて非常に驚いて、『それでは、だれが救われるのであろうか』と言った」。「イエスは彼らを見つめて言われた、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた」――「ここのところからして、マタイ七・一四に出てくる狭い門と細い道についての言葉が理解されなければならない。〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられるという仕方で〕この道を見出す『少数の者』たちは、〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使することによって、人間的な『善意志』や『絶対依存感情』(敬虔心)等に依拠することによって〕ことによるとそのことができるかもしれない賢い者や敬虔な者のことではなく、ただ彼らの上に下された神の選び(マタイ二二・一四)によってはじめて、大多数の者が見出さないことを見出すことができるようになった者たちのことである。マタイ七・二四以下によれば、〔「第二の形態の神の言葉」である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」(「啓示ないし和解の<概念の>実在」)としての〕イエスの言葉の宣べ伝えと〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕イエスの言葉〔「神の恵みの啓示」、福音〕を聞くということは、家を押し倒そうとしている風や洪水に譬えられる人間に下される〔神の〕<裁き>を意味している〔イエス・キリストにおける「神の啓示は裁きであることによって恵みである」〕。その家を建てる者が『賢い人』で<あった>ということ、彼が確かに聞く耳を<持っている>(マタイ一一・一五)ということは、イエスとのその出会いにおいては、彼が単にイエスの言葉の聞き手であるだけでなく、またイエスの言葉の行為者でもあるということ、この言葉を受けられる者は、受け入れるがよい(マタイ一九・一二)の中で<示される>。しかし、ここで、一体誰が『受け入れる』ことができるであろうか。父を顕そうとして子が選び給うた者(マタイ一一・二七)、天国の奥義を知ることが許されているあなたがた(マタイ一三・一一)である。何故、ここで、ただこの可能性だけが問題となり得るのであろうか――それは、ここで起こらなければことにおいては、明らかに、『幼な子のようになること』(マタイ一八・三)、いや、それだけでなく、新しく生まれること(ヨハネ三・三)、換言すれば明らかに〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、神人協力もという「不信仰、無神性、真実の罪」のただ中にある〕自分の生をもう一度全く別な仕方ではじめることが問題であるからである〔何故ならば、自分の生を、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>「ただイエス・キリストの<名>だけ」に固着させることが問題であるからである。したがって、われわれは、「世界の救い〘この包括的な救済の概念は、平和の概念と同一であり、その「完成」は、「終末」、「復活されたキリストの再臨」を待たなければならない。それまでは、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意志によって巨大で強力な国軍を動員できる民族国家の一国性を単位として動いている限り、常に戦争の可能性にさらされている〙を何かある国家的、法的、政治的、経済的または道徳的、倫理的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」〕。しかし、まさにこのことを、何人もなすことができない、誰もそのことに対して可能性を持っていない〔何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しない〘生来的な自然的な〙われわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」からである、「もちろん福音をわたしは聞く、だがわたしには信仰が欠けている」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〘生来的な自然的な〙『自分の理性や力〘感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〙によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ(マルコ九・二四)、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』〕からである、「イエス・キリストにおける啓示の出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に神の恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」(『神の恵みの選び』)からである」。「『悔い改めて福音を信ぜよ』(マルコ一・一五)――確かにその通りである。しかし、『悔い改める』とは何を意味しているのか、一体〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという「不信仰、無神性、真実の罪」のただ中にある生来的な自然的なわれわれ人間としての〕われわれは、〔自分で意識的に意志的に自分の〕心を変える可能性を持っているのであろうか。また、われわれが、そのような可能性を持つとすれば、どこから、どのようにして、その可能性を手に入れるのであろうか。われわれは、放蕩息子について、このあなたの弟は死んでいたのに生き返り(ルカ一五・三二)と言われているのを聞く――誰がそのことをなすことができるであろうか。また、われわれは、ヨハネ五・二四、Ⅰヨハネ三・一四で信仰は死から生命に移ることであるということを聞く――一体誰がそのように移ることに対して自由を持っているであろうか。また、われわれは、ローマ八・一〇で、『もしキリストがあなた方の内におられるなら、体(あなた方の人間性)は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっている』ということを聞くし、エペソ二・五で『罪過によって死んでいたあなた方をキリストと共に生かし』ということを聞く――このことはどのように起こることができるのであろうか。また、われわれは、Ⅱコリント四・一六で『たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく』ということを聞くし、Ⅱテモテ二・一一で『もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう』ということを、コロサイ三・九以下では勧告として『あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主の形に従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着なさい』と言われているのを聞く――誰がそのような要求に従うことができるであろうか」。「よく理解せよ。そのような、またそれと似た命題の謎は、あたかもわれわれが死から生命にまで来るということは、……よく分からない驚くべきことであるが、第一のこと――すなわち、われわれが死ぬこと・滅びること・古き人を脱ぎ捨てること・死んでいること――が、自然的で自明的な出発点であるかのように、第二のこと――すなわち、生きること・新しくされること・新しき人を着ること――に来て、はじめてはじまるのではない。出発点、第一のこと――すなわち、死ぬこと・滅びること・古き人を脱ぎ捨てること・死んでいること――が、<すでに>明らかに、それらの言葉の狭い意味においてもそれらの個所で言おうとされている広い意味においても、われわれの可能性に属していないのである」――『福音と律法』においては、次のように述べられている。聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な人間の〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、『福音と律法』によれば、そのこと自身が「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」であるのであるが、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、「神人協力」、「神人協働」、「神人共働」もということを目指すところの、生来的な自然的なわれわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」という仕方で、〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活(「神の恵みの啓示」、福音、神的な然り、生)に包括された死(「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死)において〕死に給ことによっうて引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリスト<の>信仰』は〔すなわち、『イエス・キリスト<の>信仰』の属格は〕、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」――このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である。このことからして、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>〔属格〕信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔言い換えれば、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」として理解された「イエス・キリスト<を>信じる信仰」に由って生きるのではなく――この「目的格的属格」として理解された先ず以て人間的な契機を介在させる理解の仕方は、人間「ルターの翻訳〘既存の聖書訳〙の<絶対化>、<無謬性化>である」。その還相的観点を持たないところの、すなわち<一方通行的に>ただ<信>の頂へと上昇していく往相的観点だけの思惟と語りにおいて、律法と福音を二元論的に分離し対立させ、「先ずは罪人を怖れさせ 、その罪を暴露して 、痛悔し且つ回心させるためには 、誡めを説教すべきである。しかしそれだけではいけないので、その次に他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきである。かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る。さらばキリストを信じなさい。あなたが<信じるならこれを得られるし> 、<信じないなら得られない>」というルターの『キリスト者の自由』における先ず以て<人間的な契機>を介在させる理解の仕方は、それ故に先ず以て徹頭徹尾ただ<神の側の真実>にのみ根拠づけることをしない理解の仕方は、内在的にも外在的にも現存する「不信仰、無神性、真実の罪」を生きている、またそうした時代と現実の世を生きている、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済の概念は、平和の概念と同一である)の問題を包括することができない理解の仕方である、換言すればその問題を克服することができない理解の仕方である。まさにそのような神人協力的な人間的契機も介在させたルターの「イエス・キリスト<を>信じる信仰」と目的格的属格として理解する仕方では、内在的にも外在的にも現存する不信仰、無神性、真実の罪を克服することはできないし、また平和の概念と同一である<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった成就され完了された個体自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この「完成」は、「終末」、「復活されたキリストの再臨」を待たなければならない)の「事実をまだ知らぬすべての人々に対しても完全に開くことはできない」。そのようなルターの先ず以て人間的な契機を介在させる理解の仕方には、近代へと向かう時代と現実が加担しているし、近代以降の<人間中心主義>を主調音とする時代と現実が要請していたと言うことができる。何故ならば、宗教改革者の<人間>ルターも、われわれと同じように歴史的現存性のその時代と現実に強いられて生き思惟し語り行動していたからである〘吉本隆明の『思想の基準をめぐって』によれば、「人類は、人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないものである。歴史的現存性とは、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである。したがって、個人としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである。したがってまた、個人としての人間の意志、判断力、構想が通用するのは<ただ半分だけ>であって、いったんそうした現実に衝突してからは人は、何々させられる、何々せざるをえない、何々するほかないというように生きる以外にはないのでる。このような訳で、人間の歴史は、すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではないのである」〙。われわれはある歴史的現存性の時代と現実に強いられて生き生活し、思惟し語り、行動している〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである(ガラテヤ二・一九以下)〔言い換えれば、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格をまさに徹頭徹尾<神の側の真実>としてのみある「主格的属格」として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである――この徹頭徹尾<神の側の真実>にのみ根拠づけられた理解の仕方は、「キリスト復活」から「復活されたキリストの再臨」、「終末」、「完成」までの聖霊の時代、中間時におけるそれぞれの時代、それぞれの世紀を超えて、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済⦅この包括的な救済の概念は、平和の概念と同一である⦆の問題を包括することができる理解の仕方である、換言すればその問題を克服できる理解の仕方である、全世界としての教会自身と世のすべての人々に、内在的にも外在的にも現存する不信仰、無神性、真実の罪、非知にも「完全に開かれた」理解の仕方である〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔このような訳で、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」――このことが、「『福音と律法』の<現実性>における<勝利の福音>の内容」である。このことからして、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある〔何故ならば、イエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的永遠的な<救済>概念は、『平和に関するバルトの書簡』によれば「<平和>の概念と同一であり」、「この世の神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解である。神ご自身によって、イエス・キリストの歴史〘Geschichte〙において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されているような和解である。したがって、われわれ人間によって初めて完成されねばならないような和解ではなくて、神ご自身によって確立された〘神の側の真実としてある〙和解である。イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的であり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである。イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった〘神の側の真実としてある〙現実性である。この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている」にも拘らず、全世界としての教会自身と世のわれわれ人間が、なお依然として、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きている」からである――「このことこそが悲惨なのである」。したがって、「確かにわれわれは、平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言せねばならないが、それらのことは〘現存する世界が、経済の世界性と戦争の元凶である一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な国軍(軍隊組織)を動員できる民族国家の一国性を単位として動いている限り、そしてそれが拒否権を有する5大国中心の国連安保理の当事者であれ、平和運動をする活動家であれ、さまざまな宗教の宗教家であれ、優秀などこどこの教授であれ、優秀などこどこの国際政治学者であれ、彼らが、この世界に現存するどのような国家形態の国家であれ現存する<国家を前提>として思惟し語り行動している限り、〙究極的に何の助けをももたらさないことは明白である〘換言すれば、戦争の元凶である民族国家が現存している限り、平和の実現はあり得ないことは明白である〙」。したがって、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』によれば、「世界が必要としている革命的認識は、世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ことに感謝をもって信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、法的、政治的、経済的または道徳的な、倫理的な諸原理や理念や体制等の内に求めようとしないところにある」。また、人間的領域の問題に引き寄せていえば、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の救済と平和の実現の問題は、トータルな世界認識の方法の問題を、また人間の個体性の問題を、また個―対⦅一対の男女、その対の共同性としての家族⦆―共同性という人間存在の総体性を生きる人間存在の問題を、また個―対⦅一対の男女、その対の共同性としての家族⦆―共同性の関係と構造の問題を、観念の共同性を本質とする戦争の元凶である民族国家を無化する問題を、また⦅われわれは、人間的なあらゆる国家の完全な無化を包括している「主の祈り」・「み国が来ますように」と祈っているのであるが、そして「復活されたキリストの再臨」、「終末」、「完成」においては、人間的なあらゆる国家は完全に無化されるのであるが、⦆革命の究極的な問題としての観念の共同性を本質とするすべての国家の無化を伴う、社会的なそれ故に現実的な個体的自己としての全人間の究極的包括的全体的永続的な解放の問題等を、明確に提起するところにある。何故ならば、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』に引き寄せえ言えば、「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」からである。しかし、そういうふうに問題を明確に提起した言説を、私の狭い知識のせいかもしれないが、バルトや吉本やフーコー以外の人たちから見出したことはない〕)闇のこの世以外には何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間の人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。このような訳で、「聖書は、確かに、すべての偉大な神秘家たちが、泰然自若となり、最後に自我を捨てて消滅するという、とにかく実行し得る過程として記載したことを言おうとしているのではない〔因みに、ミシェル・フーコーは『フーコーと禅』で、「禅はキリスト教の神秘主義とは全く違うものだ。(中略)キリスト教の精神性と、それに結びついた技術においてきわめて印象深いのは(中略)いや増す個別化が探究されているということです。個々人の魂の奥底にあるものを、その個人に把握させようとするのです。『おまえが何者であるのか、私に語れ』――これこそがキリスト教の精神性なのです。禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する――個性を破る傾向があるように思えます」と述べている〕。すなわち、聖書は、人間によってはいかにしても実行されえない出来事のことを言おうとしているのである。聖書は、そのまま人間の<身に及ぶ>死ぬことについて語っている。われわれは、その死ぬことが、ローマ六・三以下、ピリピ三・一〇以下で〔復活に包括された〕キリストの死およびわれわれに与えられたその<しるし>としての洗礼と最も密接に関連づけられているのを見る。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神してまことの人間>イエス・キリスト、この神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、この〕一人の者がすべての者のために死んだ、<それ故に>彼らは皆死んだのである(Ⅱコリント五・一四)。〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた〕キリストにある者は新しく造られたものである。したがって、彼らにとって古きは過ぎ去った(Ⅱコリント五・一七)が妥当する。『霊にあって』、肉の欲(ローマ八・一三)にまで来なければならない。それは、ちょうどすでに旧約聖書の中で、あの『わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ』(イザヤ六・五)――このことなしには預言者は決して預言者であることはできないであろうが、その『わざわいなるかな。わたしは滅びるばかりだに来るためには、ヤハウェの現臨を必要としているのと同様である。『<主>の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ』(イザヤ四〇・七)。『われらは<あなた>の怒りによって消え失せ、あなたの憤りによって滅び去るのです』(詩篇九〇・七)。『<あなた>がみ顔を隠されると、彼らはあわてふためく。あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る』(詩篇一〇四・二九)。世は自分自身を罰することはできない。ヨハネ一六・八以下によれば、世を罰するであろう方、『裁きをなし火をもって焼き尽くすであろう』(イザヤ四・四)方は慰め主なる聖霊である〔「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。この〘「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による〙聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は、キリストにある自由〘「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〙を意味している。この聖霊が、教会をみ言葉の奉仕へと向かわせるのである。また、聖霊はみ子の霊であり、それ故子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、われわれは神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる。そしてまた、和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たちは、〘神・授与者とわれわれ人間・受領者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〙神の子供である」〕。人間に対して下される<裁き>は、人間自身がなす事柄ではなく、神がなし給う事柄である。まさにそれだからこそ、聖書の中では裁きは、決して義から――すなわち、その中で神が同時に、ご自身の栄誉に対して場所をつくられ、ご自分の契約の相手として人間を受け入れ給う(イザヤ九・六、詩篇三三・五、一〇三・六)から切り離されることはない〔イエス・キリストにおける「神の啓示は裁きであることにって恵みである」〕。また、神によって人間が<低くされる>ことは、人間が喜びとし、それに対して感謝するであろうことである。『あなたがわたしをいやしめられる時、あなたはわたしを<大いなる者>とされます』(詩篇一八・三六)。『わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしをいやしめられ、わが救いとなられたことを』(詩篇一一九・七一)。『主よ、わたしはあなたの裁きの正しく、またあなたが<真実>をもってわたしを苦しめられたことを知っています』(詩篇一一九・七五)。まさにまことの悔い改めこそが、それと違ったふうには語らないであろう。まことの悔い改めこそが、自分自身を、それであるから啓示の<主観的な>可能性を〔すなわち、「神の啓示が人間の身に起こり得る可能性」、「神の啓示が人間の身に及ぶ可能性」――それは、ただ「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」として<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方でだけ可能な可能性を〕、またその否定的側面からしても、人間的な可能性としてではなく、神的な可能性として理解するであろう」。
「人は、一五一五年から一六年にかけてなされたルターのローマ書講解――すなわち、神の恵み深い裁きの中でのキリスト教的悔い改めと謙遜の偉大な賛美を、そこで絶えず人がキリスト教的悔い改めと謙遜へと導かれるならば、それもまた神のみ業であって人間の業ではないということを思い出させている調子に注意を払わないならば、全く誤解することになる」。ルターが理解した「パウロがローマ書で言おうとしている意図」――「ルターは、自身ノ義シサト智ノスベテヲ打チ破リ……罪ヲ確認シ多クシ大キクスルコトデアル。ケダシ神ハワレワレ自身ノデハナイ外カラノ義ト智トニヨッテ――スナワチ、ワレワレカラ出ナイ、ワレワレノ中ニ源ヲ有シナイ、他ノ所カラワレワレニモタラセタ義ニヨッテ、ワレワレヲ祝福シ給ウカラデアリ、ソレハマタワレワレノ土地ニ生ゼズ、天カラ来タモノデアルカラデアル。しかし、……確かに、ただ自分自身実際に罪人と<なった>人間だけがそのように把握し告白することができる。トコロガ、自然的ニソノヨウニ罪人デアルコトヲ自覚シテイル者ハヒトリモイナイ。人ガ罪人トナルコトハ稀ニシテ困難デアル。言い換えれば、罪人となるということは、偽り者および愚か者となること、内的に(わたし自身の前に)外的に(神の前に)立っている者としてそこに立つということを意味している。しかし、まさにそのことこそ、われわれはわれわれからしてはできない。ワレワレハ、決シテ自ラ内省シテ虚言者・不義者トナルコトハデキナイカラデアル。われわれはわれわれが罪人であることを信じなければならない。ケダシ、信仰ニヨッテ神ノ義ガワレワレノ中ニ生キルト同様ニ、ソノ同ジ信仰ニヨッテ罪モマタワレワレノ中ニ生キル、スナワチ信仰ニヨッテワレワレガ罪人デアルコトガモットモダトサレル。しかし、そのことは、われわれは、<神>を信じなければならないということを意味している。つまり、神の言葉を信じなければならないということを意味している。……ケダシ、モシモ神ガ先ズゴ自身ヨリ顕ワレ出給イ、真実ナル方トシテワレワレノ中ニ立トウトシ給ウノデナケレバ、ワレワレハ、決シテ自ラ内省して虚言者・不義者トナルコトハデキナイカラデアル。ソコデワレワレハ、コノ神ノ啓示、スナワチ神ノ言葉ニ席ヲ譲リ、信仰ヲオクリ、コレヲ義トシテ確認シ、コレニ帰依シ、ワレワレ自身ヲ、(コノ道以外ニハ認識サレナカッタデアロウワレワレ自身ヲ)罪人トシテ告白スベキデアル。そのような訳で、あの罪人トナルコトは、ただ聖霊ノ働キニヨッテ現実に起こることができるだけであるし、謙虚サは、ただ霊的ナコトとして実在となることができるだけである。霊的ニシテ知恵アル人間ノシルシハ、自分ガ肉デアルコトヲ知リ、自己嫌悪ノ情をモツコトデアル。ただ霊的な人間だけが、自分自身について、ちょうどパウロがローマ七・一四以下で自分について語っているように語ることができる。モシモ霊ノ光ノ中ニイルノデナケレバ、彼ハ自分ニトッテ肉ノ邪悪サガ増大シテクルノヲ見ナイシ、嘆クコトモナイデアロウ。トイウノハ、罪ヲ憎ム者ハ既ニ罪ノ外ニアリ、マタ選バレタ者ニ属シテイルカラデアル。神ノ言葉ガ、彼ラノ中ニソノ働キヲ、スナワチ神ノ前ニオケル戦慄ヲヒキ起コス。神ハソノ賜物ヲ給ウ前ニ、マズワレワレノウチニアルモノヲ打チ砕キ打チ滅ボスというのが神のなさる方法である。神はキリストご自身の謙虚さと高揚の中で、われわれの目の前にある通りの固有な業の中でこそ、われわれにとって隠れた神、われわれの思惟と存在に対する矛盾の下に隠れた神であり給う。シカルニ神ハ、事実ソノ力ヲ弱サノ下ニ、ソノ知恵ヲ愚カサノ下ニ、ソノ仁慈ヲ峻厳サノ下ニ、ソノ憐憫ヲ怒リノ下ニ隠シ給ウタカラデアル。神は、選ばれた者に対するご自分の力を、……彼らの無力さを示す……空しくされる時に、それであるから彼らの力についてはもはや何も誇ることができなくなる時に証明し給う」。
「カルヴァンのキリスト教綱要の有名な導入の章のすべての知恵の総内容としての二重の認識、すなわち神ヲ認識スルコトハ、ワレワレ自身ヲ認識スルコト」である〔このことを、バルトの思惟と語りに引き寄せて言えば、次のように理解することができる――イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通して、われわれは、例えば「イエス・キリストにおける啓示の出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったことを認識〘自己認識・自己理解・自己規定〙することができる、神の選びをイエス・キリストの復活〘「神の恵みの啓示」、勝利の福音、神的な然り、生〙において認識〘自己認識・自己理解・自己規定〙し、神の放棄をイエス・キリストの十字架〘「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死〙において認識〘自己認識・自己理解・自己規定〙することができる、そのような仕方で「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として<自分自身>を、またそのような人間の<世>を認識することができる」(『神の恵みの選び』)ように〕。「知恵の総内容としての二重の認識、すなわち神ヲ認識スルコトハ、ワレワレ自身ヲ認識スルコト」――「カルヴァンは、この二種類の認識のうち、いずれが他に先立ち、いずれが他を基礎づけているかという問いから出発している。カルヴァンは、先ず神の認識は、われわれの自己認識の中に、しかも全くわれわれの無力さについての認識の中に基礎づけられているということを認める。われわれがいま人間の中に見出すところの不幸に満ちた世を目撃することによって、己が無知とむなしさと乏しさ無力さ、ついには堕落と頽廃との感に襲われて、主ニオイテのほかはどこにも知恵、力、善、義、真理がないことを認識するに至る。われわれは、自分自身に対する不快感を抱きはじめてからでなければ、神を真剣に渇望することはできない。自分自身に満足している者は、おのれ自身に案じていて、神を必要としない。このような訳で、〔われわれの〕自己認識は、神を尋ね求める契機であり、神を見出すことへと導いてゆく。
「<しかし>、一体どのようにして人は、実際の自己認識にまで来るのであろうか」。バルトは、次のように思惟し語る――<先ず以て>イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、「神のみ顔を先ず凝視し、<ソノ次ニ>コレヲ直視スルコトカラ自己自身ヲ検討スルコトへと下ってくるのでなければ〔言い換えれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通して、自己自身を内省することへと下ってくるのでなければ〕、決して自己認識〔・自己理解・自己規定〕に到達することはない。われわれは、自分で自分を観察しているだけでは、己を罪に定めることはない〔言い換えれば、聖書の意味で、「義とされた罪人」として自己認識し自己理解し自己規定することはできない〕。一旦〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、〕われわれが思いを神に向け、神の義と知恵と力のことを考え始めるならば、われわれにとってわれわれの義は不正として、われわれの知恵は愚劣として、われわれの力は無力さとして明らかになって来るし、それ故に実際に自己認識〔・自己理解・自己規定〕にまで来るのである」。このような訳で、「聖書に従えば、ただ人間が、〔先ず以て、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」、〕その<神の啓示された尊厳さ>の前で、死にまでうちのめされてみ前に立つところでだけ、人間の卑しさについての認識〔自己認識・自己理解・自己規定〕が存在する」、「われわれの神認識は、それに対応する自己認識によって条件づけられているとしても、その相互的に条件づけられている関連性の中で、まさに〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての〕神認識に対してこそ決定的に優先権が与えられなければならない。
そのような訳で、「その後、神に向かっての人間の不自由さについて論じているカルヴァンの論述(綱要Ⅱ・2・1)、罪深い人間は、誉れを神に帰さなければならないが故に、自分自身の知恵と力はすべて断念しなければならないということへの想起でもってはじまる。したがって、悔い改めは、厳格に〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての〕信仰から、キリストへの参与から由来する(Ⅲ・3・1。なお3・9を参照せよ)。そこでカルヴァンはキリスト教的生活ノ総内容を見て取ったのであるが、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通した〕ワレワレノ自己否定ハ、ワレワレ自身ノモノデハナク、主ノモノデアル〔主から贈り与えられるものである〕という命題から導き出されている(Ⅲ・7・1)。したがって、義認を信じる信仰の謙遜サは、控エ目デアルという徳と混同されてはならず、むしろ義認を信じる信仰の謙遜さは、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての〕み言葉の中にあっての神ご自身に希望を置く以外ことが人間に残っていないということから成り立っているということである(Ⅲ・12・6)」。
われわれは、「われわれの現実存在の否定的な規定の可能性は、神の啓示に向かっての人間に固有な可能性、世界内存在的に人間論的な結びつき点を意味していると説く教説〔「まさに決定的な箇所で現れてくる不連続性ということから、人間と神、自然と恩寵、理性と啓示の間の連続性が、それと共に中立的な『アンテナ』、すなわち第三条の自然神学の対象が成り立っている」例えばエーミル・ブルンナーの神学〕に対して、われわれの立場を明確に提示しておかなければならない。確かに一方において神の啓示、他方において人間が徹底して救いを必要としている姿の間にある関連性(Ⅰコリント一・二六以下、マタイ一一・二五、ルカ一・五二、ヤコブ一・九、ルカ六・二〇、ヤコブ二・五、マルコ二・一七、Ⅱコリント一二・九)は、断ち切りことのできないものである。言い換えれば、啓示の中での神の顕現〔「秘義の<啓示>」〕は常に神の隠蔽〔「啓示の<秘義>」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、この「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」〕であり、イエス・キリストの甦りと高揚〔「神の顕現」〕はその受難と死〔「神の隠蔽」〕、その最も深い屈辱を前提としていることが確かである限り、神の啓示と救いを必要としている人間の姿の間にある関連性は、断ち切りことができないものである。その場合、イエス・キリストは、その関連性の基礎であり意味である。愚かさ、低さ、弱さ、苦しみ、死、一言で言えば人間的現実存在の否定的な規定そのもの自身は、決して一般的にその関連の中に立っているわけではないし、世界内在的な人間論的可能性として何らかの功績があるわけでもないし、われわれの現実存在の積極的な規定のさまざまな可能性と比べて何か優れた点を持っているわけでもない。パウロは、Ⅰコリント一・二六で、あれらの愚かな者、柔い者、無力な者、身分の低い者や軽んじられている者について、明らかにそのような者が多数いる中から、神は彼らを選ばれたと述べている。それは、『<どんな>人間でも、神のみ前に誇ることがないため』に選ばれたのである。ヤコブと並んで、キリストと貧しい者、病気の者、取税人等の間のあの関連性をあのように特に強調しているその同じルカ福音書記者は、イエスをして実に三度も(ルカ七・三六、一一・三七、一四・一)……パリサイ人の食卓への招待に応じさせている」。「パウロは、Ⅱコリント七・九―一一で、コリントの人たちが<悲しんだ>からではなく、悲しんで<悔い改める>に至ったから、神のみ心に添うて悲しんだから、喜んでいるのである。この神のみ心に添う悲しみは〔すなわち、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通した神のみ心に添う悲しみ、換言すれば「われわれの現実存在の人間論的な限界づけや大きな不幸」、聖書の中で証しされている「キリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという不信仰、無神性、真実の罪」に気づかされる神のみ心に添う悲しみは〕、ただはっきりと幸いなりとして祝福されることができるだけであるという点で、『この世の悲しみ』〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられた「われわれの現実存在の人間論的な限界づけや大きな不幸」、ミシェル・フーコーによれば「権力は実体ではなく、個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ――すなわち、ある価値基準ある時ある場所において、聖なるものと俗なるもの、教えるものと教えられるもの、正常なものと異常なもの、支配されるものと支配するもの等へと関係を規定する政治的合理性の形態である」ところの不幸、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている。国家は支配であり、文化は支配である」(『啓示・教会・神学』)不幸、それが人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「食物の飢え」や「煩悩」や「生老病死」等で困窮するする「具体的な一人の人や一部の人を不憫に思い、悲しみ、助けおおせることは極めて稀なこと」であり困難なことである不幸、それらの人々も「最後的には自死で反応することもできる」不幸、〕と区別される。このことと共に、そのような神のみ心に添う悲しみは、われわれがもともと持っている可能性の一つではなく、世界内在的に人間論的に確認され理解され得るものとなる人間的現実存在の規定ではないということも言われている。ルカ六・二〇、<貧しい人たち>は幸いであるは、マタイ五・三によって正しい仕方で注釈されている――<心の>貧しい人たちは、幸いである、と。<この>貧しさ、救いに役立つまことの絶望は、信仰と同様、それ自身信仰に属する<聖霊>の賜物として〔何故ならば、われわれは、「<この>貧しさ、救いに役立つまことの絶望」を、ただ<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通してだけ認識することができるからである、ちょうどわれわれは例えばただそういう仕方でだけ、「神の選びをイエス・キリストの復活〘「神の恵みの啓示」、勝利の福音、神的な然り、生〙において認識し、神の放棄をイエス・キリストの十字架〘「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死〙において認識する」ように〕、〔神性を内在的本質とするそのの外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>〕<イエス・キリスト>の業である。その聖霊の賜物およびイエス・キリストの業として、その貧しさは、〔イエス・キリストにおける「神の啓示は裁きであることによって恵みである」ということからして、〕決定的にその人間の罪の認識の中で、それ故に先ず第一に、われわれに対してその罪を赦し給う神の<あわれみ>を認識することの中で認識される。ダマスコ途上でサウロは先ず自分の主を見、主の声を聞き、それから彼は地に倒れ、ふるえ、目が見えなくなる。そのようなものとして、その貧しさは、信仰の実在である。言い換えれば、その貧しさは、抽象的にわれわれ自身の貧しさの経験から成り立っているのではなく、むしろ具体的にゴルゴタの丘の上で出来事として起こったところの、それのみがわれわれの貧しさを徹底的に決定的にあらわにすると共にわれわれの富の基であるイエスの貧しさ(Ⅱコリント八・九)から成り立っている。そのようなものとして、その貧しさは、原理的な包括的な貧しさである、実際にまことの貧しさである。何故ならば、それは、実際に人を救う絶望であるからである。そのような貧しさの中で打ち砕かれ挫折するところのものは、ただ単にわれわれの確実さだけでなく、またわれわれの不確実さであり、『保証のなさ』であり、ただ単にわれわれの反抗だけでなく、またわれわれの気落ちであり、ただ単にわれわれの潔白な良心だけでなく、またわれわれのやましい良心である。この貧しさは、実に<われわれ自身>に対する絶望である。したがって、それは、また〔「人を救うまことの絶望の<しるし>となることができる」〕人間的な実存の規定の否定的な可能性に対する絶望である。「そのようなものとして、人間的な愚かさ、低さ、弱さ、まことの絶望について、その限り神の啓示について証しをし語っている。しかし、それらは、必ずしも神の啓示と相関的に関わっていることにはならない。それらと神の啓示の間には、一般的な必然的な体系的に力を奮わせられるべき関連性はない。もしもそれらが人間の側の『アンテナ』であるとするならば、それは、まさに一般的に人間的な可能性としてのその中立性の中でではなく、むしろ神的な選びによって定められた<しるし>として、それであるからそれ自身、そこで生起し受け取られた啓示に基づいてのことである〔したがって、「神的な選びによって定められた<しるし>」となるためには、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり、啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)に連帯し連続して、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの勝利の福音を尋ね求めることを必要とする、また生来的な自然的な人間の自己意識・理性・思惟は、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」よって更新されることを必要とする〕。その時それは、人間が自分自身から自分自身について知ることができるに属していない。その時それは、神によって新しく措定された『結びつき点』、もともと〔生来的な自然的な〕人間の性質の中にあるのではない『結びつき点』である」。このような訳で、「それらは、第三条の自然神学〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚するのではなく、一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」、類的機能を持つ生来的な自然的な自由な自己意識・理性・思惟に立脚する自然神学〕の対象ではない」。因みに『ナイン!―エーミル・ブルンナーに対する答え』と『教会教義学 神の言葉』によれば、ブルンナーの思惟と語りは次の点にある――「ブルンナーの人間に固有な『結合点』は、啓示神学に対して、それをも規定し得る独力で立った堅固な下部構造である」、「カルヴァンは、天地万物からする神認識とキリストの中での神認識との二つの神認識について語ったが、ブルンナーとは違って、啓示に対するまたキリストの中での新生活に対する結合点を見出していない。すなわち、聖書以外にさらに聖書を補う別な啓示の根源を、理性や歴史や自然の中に何とかして求め、それらに独自性を与えて、後から追加的に『何らかの仕方で』……発言せしめることをしていない。天地万物の中におけるカルヴァンの神認識は、ブルンナーと違って、〔聖書の中で証しされている〕キリストの中における神認識そのものにおいて可能であるとする」、「ブルンナーは、内容的には神の像は全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もないと語るのであるが、人間には〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別〕啓示なくしても、人間自身が本来持っていて、そして啓示の中で言わば甦って来る、人間に内在する啓示能力、言語能力、言語受容能力、呼びかけられうる能力があるとする〔因みにバルトは、『カント』で、『「自然」神学』の位相にある神学について、次のように述べている――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」〕。それは、人間の持っている『神の像』であると言う。すなわち、ブルンナーは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものであるとしても、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別〕啓示に先立つ『啓示能力』、『結合点』」を主張する。「この人間に固有な『結合点』は、罪人からも喪失してしまっていない『形式的な神の像』である」と言う。「それは具体的には、人間の『人間性』、『理性や応答責任性や決断能力』のことであり、神の啓示に対する客観的可能性となるものである」と言う、それ故に「ブルンナーの目指している神学的課題は、理性的思惟の絶対化、理性万能の妄想と理性の孤立の中で、神的汝をあこがれ求めている人間の理性を解放することにある」、そしてブルンナーの「神的汝をあこがれ求めている自信過剰」の半減された「近代的精神」、類的機能を持つ近代的な人間の自由な自己意識・理性・思惟は、「新たな神との共働者」、神人協力を目指すそれである。
(三)
「聖霊の注ぎを通して〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示信仰」・「啓示認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられることを通して〕、……<神の啓示が人間の身に及ぶということが、人間の自由の中で可能となる>〔詳しく言えば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、「神的愛に基づく」<父>――すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)と<子>――すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)の交わりとしての<聖霊>――すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――の注ぎを通して、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」の中で、神の啓示が人間の身に及ぶということが可能となる〕。それは、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」〕<聖霊の注ぎの中で、神の言葉が人間にとって避けることができない仕方で主人となるからである>〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「聖霊の働きの本質的なもの、直接性は、われわれが、一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるが故にそのように告白することを要求する、またわれわれの中にも・中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する、またわれわれの理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する、またわれわれの究極的限界性を告白することを要求する」〕。われわれは、(一)と(二)において語られたことから、啓示の<主観的な>可能性〔すなわち、「神の啓示が人間の身に起こり得る可能性」、「神の啓示が人間の身に及ぶ可能性」――それは、ただ「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」として<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方でだけ可能な可能性〕、つまり神の言葉に対するわれわれの自由を〔すなわち、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を〕、あらゆる事情の下で、〔すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、換言すれば「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「イエス・キリストご自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」(「その最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」)としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストご自身の中に尋ね求めなければならず〔何故ならば、イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」を持っているからである、神の言葉自身がその言葉自身に固有な自己運動を持っているからである――すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を持っているからである〕、決してわれわれのところで・われわれの中で尋ね求めてはならず、それ故に啓示の<主観的な>可能性〔すなわち、「神の啓示が人間の身に起こり得る可能性」、「神の啓示が人間の身に及ぶ可能性」――それは、ただ「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」として<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方でだけ可能な可能性〕、神の言葉に対するわれわれの自由を〔すなわち、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を、詳しく言えば「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「教えの純粋さを問い・尋ね求める」「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「正しい行為を問い・尋ね求める」「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指してくところの、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」を〕、どうしても奇蹟として理解しなければならず、それであるから決して〔個体的自己としての全人間の身体と身体を座とする精神を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動を行うことができるという、また「存在者レベルの神」としての人間的な様々な意味世界・物語世界・神話世界を類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化し客体化することができるという〕われわれの自然な〔生来的な〕自由および力強さとして理解してはならないということを知る」。しかしながら、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である「神の第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎを通して〔すなわち、「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示信仰」・「啓示認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で〕、……神の啓示が人間の身に及ぶということが、人間の自由〔すなわち、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕の中で可能となるイエス・キリストの奇蹟の意味と意義は何であるかという問いに対して答えなければならないのであるが、われわれは、その問いに対して答えようと試みるに際して、(一)および(二)で確認したことを念頭に置いておかなければならない。それであるから、われわれは、〔個体的自己としての全人間の身体と身体を座とする精神を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動を行うことができるという、また「存在者レベルの神」としての人間的な様々な意味世界・物語世界・神話世界を類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化し客体化することができるという〕人間に注ぎこまれた恵みの素質についてあるいは人間にもともと生まれながらにして備わった啓示に対する〔生来的な自然的な〕能力と力について語り、結局はわれわれの注意をイエス・キリストから逸らせてわれわれ人間の方に向けるようにいざなわれてはならないのである」。「啓示の<客観的な>実在〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、換言すれば<客観的な>「存在的な<必然性>」、イエス・キリスト自身〕および啓示の<主観的な>実在〔<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(換言すれば<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられる教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生〕は〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕<神の>実在であるように、〔「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性における〕啓示の<主観的な>可能性は<神の>可能性であるのであって、あくまで事情はそうであり続ける。事情がそのようであるとすれば、その時、その可能性にあずかる人間の参与は何を意味するのであろうか。その可能性は、あくまでも神の側からわれわれ自身に対してであるということを理解すべきことを意味している〔ちょうど先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意ができている」ところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に「神の認識可能性である」ところの、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の言葉」)・「和解者」としての「子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事」――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおいて、神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〘「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〙に向かっての人間の用意が存在する」、包括的に言えば「先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」ように〕。しかし、その時、その可能性にあずかるようになるということは、われわれがわれわれ自身であるというわれわれの自己同一性を除去することを少しも意味していない。したがって、人が、ただ自己同一性の<意識>の除去としてそのような状態は存在するとしても、その可能性にあずかる参与のことを、恍惚とか忘我脱魂状態の方向で理解しようとすることは、恐ろしい誤解である」。「聖霊の注ぎを通して〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である「神の第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示信仰」・「啓示認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で〕、……神の啓示が人間の身に及ぶということが、人間の自由〔すなわち、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕の中で可能となるという奇蹟においては、自分自身との自己同一性を保ち続けている自分自身と<同一である>われわれ人間自身の身に出来事として起こるまさに神の奇蹟が問題である。聖霊論も仮現論の過ちを犯してはならないのである。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為――である「神の<子>あるいは神の<言葉>」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト、<客観的な>実在としての〕啓示の中で啓示を聞くという神的な可能性〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示の固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新されたわれわれ人間の理性性に基づいた「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕は、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死およ復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」として<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で〕われわれ自身に対して与えられる。その時、その私は、古い人間であり、同時にまたその神的な可能性に基づいて新しい人間である。そこでは、われわれに与えられたその神的な可能性への参与を、<われわれが>とること、受けとること、つかむこと、自分のものにすることが問題である〔そこでは、「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」の中で、「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「教えの純粋さを問い・尋ね求める」「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「正しい行為を問い・尋ね求める」「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くことが問題である。何故ならば、イエス・キリストにおける「包括的な救済概念は、この世の神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解である。神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解である。したがって、われわれ人間によって初めて完成されねばならないような和解ではなく、神ご自身によって確立された和解である。イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである。イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性である。この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている。したがって、われわれが、この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨なのである」からである〕」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為――である「神の<子>あるいは神の<言葉>」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト、<客観的な>実在としての「啓示の中で啓示を聞くという神的な可能性〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示の固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新されたわれわれ人間の理性性に基づいた「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕が、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死およ復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」として<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で〕私たち自身に対して与えられるこの参与は、確かにわれわれの現実存在が限界づけられ中断されること、しかも〔「古い人間」としてのわれわれの現実存在が〕最高に具体的に限界づけられ中断されることを意味しているとしても、超自然的な要因と力がわれわれの身体的―精神的人間生活が営まれる際の関連し合った過程の中に魔術的に突入してくるなどということではない〔したがって、次のことは、「超自然的な要因と力がわれわれの身体的―精神的人間生活が営まれる際の関連し合った過程の中に魔術的に突入してくる」こととは違っている――すなわち、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを認識(自己認識、自己理解、自己規定)させられること、また「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〘生来的な自然的な〙『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたしは信じる』とかれが言うのは、〘「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」という「その答えを……全く端的に、信じ給うたイエス・キリスト、〙『主よ、わたしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ(マルコ九・二四)、その願いと共にのみであろう」ということを認識(自己認識、自己理解、自己規定)させられること、またまたイエス・キリストにおける「啓示の出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを認識(自己認識、自己理解、自己規定)させられること、また「神の選びをイエス・キリストの復活において」認識(自己認識、自己理解、自己規定)させられ・「神の放棄をイエス・キリストの十字架において」認識(自己認識、自己理解、自己規定)させられること、また「神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世」を認識(自己認識、自己理解、自己規定)させられること、またイエス・キリストがわれわれに対して同時的となる時と所、『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところにおいては、われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認させられる、それ故にわれわれは世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認させられ確認させられる、すなわち自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定〘裁き〙、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認させられ確認させられる」こと、それ故に聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、啓示神学に立脚しないところの、一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」、自然神学および教会の宣教における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ということを承認させられ確認させられることは、ただ聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通してのみ可能な自己認識・自己理解・自己規定である〕――このように、「われわれの現実存在は、〔われわれを限界づけ規定してくる〕外、対向者を持つようになる」。「受動的な態度が、啓示の中で啓示を聞くという神的な可能性に必然的に対応しているとか、否、能動的な態度がそれに対応しているとか、主観的には必然的に不確実さと絶望の状態の中で遂行されるとか、否、健康な正常な生活感情の中で遂行されるとか、そのような対立は、とにかく世界内在的な対立である。それらはいずれも、われわれ人間の自己規定〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や欲求やによって対象化され客体化されたその人間の意味世界・物語世界としての自己認識・自己理解・自己規定〕の行為の内部での可能性を言い表しており、そのようなわれわれの自己規定の行為が<外>から、<対向者>から規定されることと、すなわちわれわれに対して啓示の中で与えられる神的な可能性〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示の固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新されたわれわれ人間の理性性に基づいた「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕と何ら関りがない。このことを確認することは大切である」。何故ならば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為――である「神の<子>あるいは神の<言葉>」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト、<客観的な>実在としての「啓示の中で啓示を聞くという神的な可能性〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示の固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、またその中での<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新されたわれわれ人間の理性性に基づいた「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕が、私たち自身に対して与えられる参与は〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられることを通して「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」の中での参与は〕、われわれの現実存在の内部の何処かで、われわれは責任を持たなければならないことはない……空虚な場所が発生してくることを決して意味していないということについて明らかでなければならないからである〔言い換えれば、「啓示の中で啓示を聞くという神的な可能性が、われわれ自身に対して与えられる参与」は、次のことを意味する――イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)に連帯し連続して、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの勝利の福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」教会の宣教における一つの「教会的な補助的奉仕」としての<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの勝利の福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、それ故に一般的な倫理学の問題ではない。すなわち、それは、全世界としての教会自身と世のすべての人々が<現実的にキリストの勝利の福音を所有することができるためになす>キリストの勝利の福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくということを意味する〕。したがって、それは、……偶像礼拝が神礼拝に対して関係するように関係する……熱狂主義的な魔術ではない、……〔生来的な自然的な〕自然的人間が啓示に対して力を持っていことを説く教説ではない」。「聖霊の注ぎを通してわれわれに与えられる神的な可能性は〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で生起する「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」は〕、まさに<全>人間が〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神と直面させられる出会いの可能性全体の中での人間、それであるから<すべての>彼の状態と態度の可能性の中にある人間が〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神と直面させられる出会いの可能性である。その人間全体が、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為――である「神の<子>あるいは神の<言葉>」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト、<客観的な>実在としての〕啓示の中での神を通して語りかけられ、要求され、裁かれ、恵みを受けるのである〔何故ならば、聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「神の啓示は、裁き〘「神の裁きの啓示」、律法、神的な否、死〙であることによって恵み〘「神の恵みの啓示」、福音、神的な然り、生〙である」からである〕。人間に対する啓示のその全体性の故に、人は、人間の<中で>神が啓示されてあること〔すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」としての「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)〕に対して、われわれ自身の体験と行為から離れたところに、……何か暗いあるいは明るい一つの場所、……責任を免除された場所、〔主観的に〕そのような責任を免除された場所を念頭に置いて自分自身と神の傍観者であり得るような場所をあてがうことはできない。まさに神のみ前にこそ、そのような奥まった場所は存在しない。そこには、ただわれわれにとってかなりよく知られた一つの場所、すなわちわれわれの身体的―〔身体を座とする〕精神的な現実存在〔肉体的―意識的な現実存在〕という一つの場所があるだけである。その全体性の中でのわれわれの身体的―〔身体を座とする〕精神的な現実存在〔肉体的―意識的な現実存在〕そのものが、神的な可能性〔すなわち、神的な可能性としての<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で生起する「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕にあずかるのである。われわれがその神的な可能性にあずかるわれわれの参与を理解しようとする時、われわれのもろもろの可能性の場所全体が、神的な可能性によって包まれているということが問題である〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、啓示神学に立脚するのではなく、一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」、「『自然』神学」に立脚するのは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」(『教会教義学 神の言葉』)からである、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」(聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性⦆におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「聖書」、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準する<客観的な>教会の信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)という<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に信頼しないからである〕。それであるから、われわれが、その神的な可能性にあずかる参与〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」にあずかる参与〕をどうしても理解することができ<ない>時、あるいはまさに奇蹟としてしか理解することができない時、その可能性にあずかる者としてのわれわれは、われわれは確かにわれわれ自身が神の前に置かれているのを知っているが、しかし、どのようにしてわれわれ自身はそのところまで来ることができるのか、どのようにしてわれわれ自身そこに立ち、そこにいることができるのか、どのようにしてわれわれはそのことにふさわしいし・そのことができ・そのことに対して能力のある者なのかを告げることができないという点で、われわれ自身にとって謎となる、さらにわれわれは確かにわれわれの体験と行為全体が、あの可能性にあずかる者として神の前に立つ在り方の中に編み入れられていることが許されるし知らなければならないが、しかし、一体どの程度までこれこれの印象がわれわれの召命であり、これこれの発見がわれわれの霊的覚醒であり、これこれの決断がわれわれの回心であり、これこれの確信がわれわれの信仰であり、これこれの感情の動きがわれわれの愛であり、これこれの待望がわれわれの希望であり、それ故にわれわれのとる態度の中でのこれこれのものが神のみ前でのわれわれの応答責任であり義認であるかを決して語ることができないという点で、われわれ自身にとって謎となる。何故ならば、常にわれわれは、神の神的な可能性にあずかる者として、ただわれわれ自身と何らかのひどく主我的な・ひどく人間的な心の状態・態度・立場を見て取り見出すだけだからである。<どの程度まで>われわれの状態とわれわれの態度の具体的な姿が、まさにわれわれが神の神的な可能性にあずかる参与の具体的な姿であるのかは、われわれにとって常に把握できないものであり、また把握できないものであり続ける。このようであるという<事実>、そのことは否定されることができないことであるが、しかし、そのことと最も厳しい仕方で矛盾しつつ、<どの程度まで>事情はそうであるのかということと<どのように>われわれ自身がわれわれの体験と行為の中で神の神的な可能性を持つことができるのかということは、われわれの知覚でとらえることはできないものであり、またどうしてもそうでなければならないのである。ここで語られているところの神との関係の中にある人間の困窮した姿を、ただ〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた〕神の子供だけが知っている……。言うまでもなく、ただ〔その神の子供としての〕彼らだけが、啓示の奇蹟〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である啓示の秘義の<しるし>、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>ということ」(「第一の条項」)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>ということ」(「第二の条項」)という<クリスマスの奇蹟>の出来事〕を知っており、その奇蹟からして明らかな確実な生起している事実とただ単に不明瞭で不確かであるばかりでなく、徹頭徹尾隠されているどのように生起するのかの間の矛盾を知っている。彼らは、われわれに与えられた神の神的な可能性は、われわれ自身の体験と行為という容器をただ粉砕することができるだけである内容であることを知っている。それであるから、神の啓示の〔客観的な〕実在の中で、彼ら自身の内部で否定すべくもなく登場している啓示の主観的な実在〔すなわち、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生〕に直面して、彼ら自身が、自分にとって謎とならざるを得ないのである。また、〔その神の子供としての〕彼らは、その謎は解き明かすことができないということを知っている。何故ならば、人間はただ単に〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕聖霊の秘義の中をうかがいみることができないばかりでなく、なかんずくうかがい見ることが許されないのであり、まさに人間がそこでうかがい見ることが許されないが故に、そして主でありあくまで主であり続けようと欲し給う神がそこで人間がうかがい見ようとすることを妨げ給う故に、うかがい見ることができないということを知っているからである。〔聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「神の啓示は裁きであることによって恵みである」が故に、〕その裁きの中で神の恵みを受け取ること、暗闇の中での明瞭さ、まさに神の前での自分自身をただ余りにもよく知っており、自分の印象・発見・決断・感情・期待・態度・決定がいかにもろいものであるかを知り過ぎる程よく知っている呼び覚まされた者、召された者、回心した者、信じる者、愛する者、希望する者の安らぎ・平和・喜びが、神の神的な可能性の中での〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」にあずかる中での神の子供としての〕彼らの生活である。その矛盾が力強く一つにまとめて保たれているということが、しかも彼らによってではなく、彼らの洞察と認識にとってでもなく、ただ神の恵み深いみ業を通して、神の認識の中で力強く一つにまとめられて保たれているということが、神の神的な可能性の中での〔換言すれば、神的な可能性、すなわち<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという仕方で生起する「聖書の意味で、神を信じ、神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」の中での、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられた啓示の<主観的な>実在としての教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての〕彼らの生活を基礎づけ保っている。〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神が、その矛盾を力強くひとつにまとめて保っている方として、換言すれば〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の<子>あるいは神の<言葉>」、その「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリスト〕その方の中で、人間が神ご自身を持っているということが現実でありまことである方として行いまた知り給うところのことは、人間が自分ではどうしても理解することができず、あるいはただ奇蹟として理解することもできないところの恵みの秘義〔「啓示の秘義としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」―「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」〕は、人間のところに新しく来た〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神の<言葉>の秘義である。われわれが<イエス・キリスト>の秘義〔イエス・キリストの人格の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>、「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」〕というふうに言う時に、われわれは、それと同じことを言っているのである。何故ならば、言うまでもなく、イエス・キリストの秘義がいまや奇蹟〔秘義の<しるし>、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>ということ」(「第一の条項」)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>ということ」(「第二の条項」)という<クリスマスの奇蹟>の出来事〕として〔啓示の<主観的な>実在としての教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての〕彼らの生の中にも立っているということ、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の子あるいは神の言葉」、その「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスとして人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」として〕神が<人間>となられたように、そのことに基づいてそこで人間が〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕<神>を持つということが、人間のところに来て人間によって聞かれた〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神の言葉の秘義だからである。〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>〕イエス・キリスト、〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕肉となった神の子の中で、言うまでもなくあの矛盾は、上から、神からして一つにまとめて保たれている。〔キリストにあっての神としての〕神の〔「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下」としての〕身を落とすあわれみ深い愛の全能の力の中で、一つにまとめて保たれるその同じ全能の力の中で、あの逆説と矛盾は、イエス・キリストが神の言葉〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)〕として、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教を通して〕われわれのところに来る時、下に向かって、われわれ人間に向かっても、一つにまとめて保たれる。このような訳で、ここでは、見かけだけの克服があるのではなく、まことの現実の克服、死人からのキリストの甦りの実在〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>としての実在の成就された時間」、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、平和の概念と同一である<まことの神にしてまことの人間>イエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった成就され完了された個体自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この「完成」は、「終末」、「復活されたキリストの再臨」を待たなければならない)――この「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性〘人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〙にとっての<いまだ>であり、〘神の側の真実としてある〙成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」〕による克服がある。あの逆説と矛盾の中で生きる生は、すでに、和解の中での生である。よく理解せよ。矛盾と抗争は、そこでは、霊と肉の間、新しい人間と古い人間の間、われわれの目の前にあることと神のみが見給うことの間でなされ起こっている。まさにこの抗争の中で生きる生こそが、和解の中での生である。われわれの心と意識は抗争のさ中にあって、しかもすべての思いにまさる神の平安によって守られている。言い換えれば、〔「神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な」第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神にしてまことの人間>〕イエス・キリストあるいは神の言葉が、有無を言わさぬ仕方で、このわれわれの生活の主人となり給うが故に、主人となり給う限り、われわれの心と意識は抗争のさ中にあって、すべての思いに勝る神の平安によって守られている」。
文責:豊田忠義
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から