1の2.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ 十六節 神のための人間の自由 二 聖霊、啓示の主観的可能性』について(その1)
【なお、引用箇所の〔〕および〘〙書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である。青字はバルトからの引用である。黒字の中での「」は引用箇所である】
イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死〔律法、神の裁き、神的な否、死〕および復活〔福音、神の恵み、神的な然り、生〕の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)――ここで、「神の啓示は、裁きであることによって、恵みである」ということからして、「律法は福音を内容とする福音の形式である」、詳しく言えば「福音を内容とする福音の形式としての律法」は、徹頭徹尾神の側の真実としてある<主格的>属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」(すなわち「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)、すなわち「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、換言すれば<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にその包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの(この「完成」は、「復活されたキリストの再臨」、「終末」を待たなければならない)であるところの、「われわれ人間からは何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという不信仰・無神性・真実の罪」としての〕罪によって暗くなり・破れた姿の人間的存在を〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「<秘義>の啓示」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)において、〕己の神的存在に付け加え、身内に取り入れ、それを〔徹頭徹尾「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、〕ご自分と分離出来ぬように・しかも混交〔、混合、共働、協働、共労〕されぬように統一し給うた」「福音の中核であるイエス・キリストが、律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならないから、十字架につけられ甦り給うたイエス・キリストにのみ固着せよ」ということである。したがって、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を承認し受け入れる」ということ、また「われわれの生命がキリストと共に保管されていることを承認し受け入れる」ということである――このことが、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、全世界としての教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」。イエス・キリストの復活における勝利の福音が、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の客観的な信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教を通して「同時的となる時と所、『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られる時、すなわちそのことがわれわれに告知され・証しされ・宣教される時、私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ、イエス・キリストにのみ固着せよという福音の形式である律法が建てられる」。何故ならば、「この福音を内容とする福音の形式としての律法がなければ、われわれは現実的にキリストの勝利の福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には生命に導くべきもの、神の恩寵〔すなわち「新約聖書の内容、イエス・キリストの<名>」、「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕を証しするものという事実において、福音を内容とする福音の形式である」。したがって、「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」およびその一つの「教会的な補助的奉仕としての神学」における、「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題)とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題)は、一般的倫理学におけるそれではないし、また「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」におけるそれでもなく、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしての聖書の中で証しされている<キリストの勝利の福音を現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにある。この啓示の<客観的な>実在としてのイエス・キリスト、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〘<客観的な>「存在的な必然性」〙の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての「啓示の主観的な実在の中での〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)イエス・キリストにおける〕神の啓示は、神によって与えられた啓示の客観的な実在の特定の<しるし>から成り立っている〔例えば、洗礼と聖餐という聖礼典、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)としてのイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における「啓示との<間接的同一性>」、啓示との区別を包括した同一性において<客観的に>存在しているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書、それから聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教(説教と聖礼典)の現存から成り立っている〕」。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての「啓示の主観的な実在は、〔「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての〕われわれが〔聖書の中で証しされている〕キリストを通してあり、また〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中にあるということ、われわれが神的証言の受領者であり、そういう神的証言の現実の受領者として神の子供であるということである。しかし、そのわれわれの存在そのものが〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・技・行為)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊の業である。それであるから、〔客観的なその「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(すなわち、われわれに対して、<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(すなわち、主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える〕聖霊こそが、啓示の主観的な実在である」。
啓示の主観的<可能性>
「ここで今、われわれは、啓示の主観的<可能性>を問う〔「十六節 神のための人間の自由 二 聖霊、啓示の主観的可能性」を問う〕」。「すなわち、それは、われわれが、啓示の<客観的な>実在〔<客観的な>その「受難と死〘律法、神の裁き、神的な否、死〙および復活〘福音、神の恵み、神的な然り、生〙の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)〕について語られたことを、その実在そのものを通して問うよう召し出されている問いに対する答えとして理解しようと試みるということである〔すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>「啓示の実在そのものの中に起源を持っている問い」に対する答えとして理解しようと試みるということである。換言すれば<客観的な>イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の枠組み、詳しく言えば<客観的な>「存在的な<必然性>」――すなわち、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が生じてはならない」のであるから、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された<主観的な>人間の理性性というイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「啓示の実在〘イエス・キリスト自身〙そのものの中に起源を持っている問いに対する答えとして理解しようと試みるということである」〕」。何故ならば、聖書の中で証しされている「<客観的な>啓示の実在は、〘イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているということからして〙それ自身からして理解されることを欲している」からである、<客観的な>「啓示の実在そのものが、事実、それを問うようにと呼びかけ招き促している問いを手掛かりにして理解されることを欲している」。このような訳で、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性〔人間に内在する道徳性〕にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もって〔生来的な自然的な〕われわれの〔人間の〕理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)ところの思惟と語り、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠したアウグスティヌスの造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ〔生来的な自然的な〕被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」(『教会教義学 神の言葉』)という思惟と語り、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にあるヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するシュライエルマッハーやシュライエルマッハー以外の他の人々」(『ヘーゲル』)、すなわち近代主義的自由主義的プロテスタント主義的キリスト教的神学における思惟と語り、包括的に言えば聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「特別啓示」、「啓示の真理」、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「啓示神学」に立脚しないところの、「一般的な啓示」、「一般的な真理」、「存在の類比」、「『自然』神学」に立脚する思惟と語りは、聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」(『教会教義学 神の言葉』)のである。聖書の中で証しされている<客観的な>「啓示の実在に対する従順は、われわれが、その啓示に従うことから成り立っている。〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、聖書の中で証しされている<客観的な>「啓示に対する従順」、その「啓示の後に従う」〕了解質問は、事実質問に対して先行することはできない。了解質問は、あらゆる事情の下で、事実質問の後に続いて問われなければならない〔ちょうど<客観的な>その「啓示に固有な自己証明能力」を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求しているように〕」。
「了解質問は、〔聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で〕……<神の啓示が人間の身に起こり得るのは、どのように人間の自由〔「聖書の意味で、〘聖書の中で証されているキリストにあっての神としての〙神を信じ、〘聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で〙神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕の中で可能であるのか>、という問いである。人間は、〔「神的愛に基づく〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〙父と〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〙子の交わり」としての「父ト子ヨリ出ズル御霊」、この〕父と子の聖霊〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神的愛に基づく父とことの交わり」としての聖霊〕を通して、〔「神に向かって自由である神のための人間の自由」として〕神に向かって自由である。このことから、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)と<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とする(簡潔に言えば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生としての〕啓示の主観的な実在は成り立っている。(中略)われわれは、ここでもまた、聖霊は<果たして>そのような可能性と力を持っているの<か>というように問わない〔ちょうど、<果たして>聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているのかというように問わないように、また<果たして>先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に「神の認識可能性である」ところの、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「<秘義>の啓示」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「<啓示>の秘義」)イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〘「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〙に向かっての人間の用意が存在する」のかというように問わないように〕。(中略)われわれは、〔<客観的な>〕啓示の実在の中で、すでに〔聖霊自身の業である「啓示されてあること」としての〕認識され承認された啓示の可能性はどういうことから<成り立っている>のかと問う、どの程度まで〔<客観的な>〕啓示の実在の中で問題が解決され、問いが答えられ、条件が満たされ、必要が実現されているのかと問う」。このような訳で、「われわれは、〔聖書の中で証しされている<客観的な>啓示の実在に即した〕事実質問から切り離した仕方で問うているのではない。すなわち、われわれは、〔聖書の中で証しされている<客観的な>〕啓示の実在の中で現に<答えられている>問い、この実在の中で<満たされた>条件、この実在の中で<実現された>必要を堅く取って離さないでいるのである〔ちょうどわれわれは、聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求していることを堅く取って離さないでいるように〕」。
聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の自己啓示――この<客観的な>イエス・キリストにおける「神の啓示は、裁き〔律法、神の裁き、神的な否、死〕であることによって、恵み〔福音、神の恵み、神的な然り、生〕である」ということからして、「われわれは、ちょうど啓示概念のキリスト論的探求に際してすでになしたのと同じように、人間に対する働きの中での聖霊の実在は、厳格に<否定的な>意味を持っているという主張でもって論述をはじめなければならない〔「聖霊の働きの本質的なもの、直接性は、われわれが一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるが故に、われわれにそのように告白することを要求する、また、〘それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〙われわれの中にも、中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する、われわれの理性や力〘感性力、悟性力、意志力、想像力等〙ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する、われわれ人間の究極的限界性を告白することを要求する」、換言すればそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神から日々瞬間瞬間遠ざかり遠ざかり続け・罪を新たな罪を犯し続けていると告白することを要求する、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという「不信仰」、「無神性」、「真実の罪」のただ中にあるということを告白することを要求する、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は「神に敵対し神に服従しないところの、肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」と告白することを要求する〕」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である聖霊、この<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〔<客観的な>「存在的な<必然性>」〕の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える〕聖霊の中で、われわれが神に向かって自由であるということ〔すなわち、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で、「神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕が実在であることによって、すでにわれわれは聖霊の中以外には神に向かって自由ではないということについて決定が下されている。事情は、それと別様ではない」。「神的愛に基づく〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕父と〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕子の交わり」としての「聖霊は、神ご自身として唯一のものであり〔何故ならば、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源〘、起源〙であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源〘、起源〙である。この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」からである〕、そのようなものとして、ただ神の唯一の言葉の教師であり給う〔「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であり、聖霊は聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。この聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は、キリストにある自由を意味している」、すなわち聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で、「神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>を意味している。「聖霊は、啓示への個人的な参与を保証する。パウロにおいて、霊にあってとは、救いの福音を聞き、信じるようにさせる霊、知恵と啓示の霊による神の啓示への参与、人間の思惟、行為、語ることを、主観的に表示している概念である。また、キリストにあってとは、全く同じ事柄を、客観的に表示している概念である」――「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「言葉を与える主は、同時〘「信仰に認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての〙信仰を与える主である」〕」。<客観的な>「存在的な<必然性>」としての「言葉は、〔<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的>「認識的な<必然性>」としての〕聖霊なしには存在しない。われわれは、まさに聖霊の働きを通してこそ、まさにわれわれが聖霊の中で、神の言葉が真理であることを認識する時にこそ、〔「神のその都度に自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる信仰に認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての「信仰の類比」を通して、〕われわれは確かに、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕われわれ自身が何らかの意味ですでに聖霊を持っている可能性は全くないということについて確信させられるのである〔言い換えれば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、われわれは、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということを確信させられる、またそれを通して、生来的な自然的な「自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――〘キリストの福音を〙全く信じることができないことを知り、それを告白する」、またそれを通して、「イエス・キリストにおける出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを認識する、その時「われわれは、神の選びをイエス・キリストの復活〘福音、神の恵み、神的な然り、生〙において認識し、神の放棄をイエス・キリストの十字架〘律法、神の裁き、神的な否、死〙において認識する」、すなわちそれを通して、「本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世を認識する」、また「聖霊は、人間精神と同一ではない、人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)ということを、聖霊によって更新された人間の理性性も徹頭徹尾聖霊と同一ではない(『バルトとの対話』)ということを認識する。またそれを通して、『説教の本質と実際』によれば、「説教者は、聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない。説教は語ることであるが、〘聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求めながら〙……一語一語準備し、書き記しておいたもののことである」ということを認識しなければならない〕」。「神がご自身に向かってわれわれの目と耳を開き給う時、同時に、神はまた、われわれに向かって、われわれは自分自身から神に向かって目と耳を開くことはできないということ、われわれは自分自身からして盲目であり聾であるということである、ということを語り給う」。このような訳で、「聖霊を受けるということは、自分の霊的な無力さが暴露されるということを意味している。言い換えれば、われわれは、聖霊を持っていないということに気づかせられるということを意味している。われわれは、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〘<客観的な>「存在的な<必然性>」〙の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、啓示の主観的な実在としての神の子供たちの生としての〕啓示の主観的な実在のほかには、神に向かって自由である<ほかの>可能性を全く持って<いない>〔言い換えれば、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で、「神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」である<ほかの>可能性を全く持って<いない>〕」。したがって、「上方〔「神」〕を望み見る展望はわれわれにとって遮られているということをわれわれに知らせ、まばたきしながら目を上方〔「神」〕に向けようとする者を愚か者と呼ぶという仕方で、大変な無力さを語っているいかなる哲学的な<不可知論>的な命題は、聖霊の実在の外部では人間は神に向かって不自由であるということについての神学的な命題でもって意味されている原則的な無力さについての認識に、換言すれば聖霊の実在の外部では人間が神に向かって不自由であることについての神学的な命題の中で言おうとされている原則的な無力さについての認識に……到達することはできないということに、人はよく注意しなければならない。また、不可知論者は、そのように上方〔「神」〕について語る時、結局〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神のことを言おうとしているのではない。むしろ不可知論者は、上方〔「神」〕に向かってわれわれが見て行こうとする展望は事実上は残念ながら存在しないが、とにかく存在し得るであろう上方〔「神」〕のことを言おうとしているのである」――「この時、そのような展望は、人間が自由に処理することのできる領域〔人間の決定事項〕の中で存在するし、またそのような展望を<断念する>ことも人間が自由になし得る事柄〔人間の決定事項〕なのである〔その時には、上方〘神〙は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではなく、次のような神である――それは、「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方をし、原始未開から現代までの時間累積に基づいて現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」ということからして、「現代人は、山の頂の岩石を単なる自然物であると認識する」のであるが、「古代人は、山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識」する、そういう自然宗教という宗教的形態における「存在者レベルでの神」である(吉本隆明『言葉の根源について』)、また「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配する」ところの「存在者レベルでの神」である(『啓示・教会・神学』)、また「傲慢にも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」「神自身が人間の霊魂的な、歴史的な現実の構成要素となり、したがってもはや神ならぬもの、偶像となった」「存在者レベルでの神」である(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)、また東京神学大学の実践神学者の小泉健がルドルフ・ボーレンの人間学的神学における「神律的相互関係」の概念に依拠して、人間の決定事項のようにして、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」(『R・ボーレンの説教学の教会論的基礎づけ』)と語るところにおける「存在者レベルでの神」である、また北森嘉蔵の「十字架における<神の愛>」と中国ドラマの「趙氏孤児」のような浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の『寺小屋』における農耕を経済的基盤とし自然を原理としたアジア的段階の日本におけるナショナルなものとしての共同体至上意識がいつも個体性を超えていく中で、換言すれば個・家族・社会・国家は地続きに国家に包摂され、大多数の被支配としての一般民衆は支配の側の暴政や抑圧や暴挙に対して天然自然の災害を受け入れるように受け入れて行く中で、支配共同体の「主君の子供を救うために、〘一対の男女、その共同性である家族における〙自分の息子を身代りに殺させた松王丸が、息子の死を聞いたときに言った、『女房喜べ、悴は御役に立ったぞ』という言葉で表現できる」という滅私奉公的な<人間的な愛>との同一化における「存在者レベルでの神」である(寺園喜基『バルト神学の射程』)、また「(中略)神の啓示の内容は、〘聖書の中で証しされているキリストにあっての〙神としての神から発生したのではなく、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神〘すなわち、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された(表現された)人間自身の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神」〙から発生した……。(中略)こうして、この対象〘人間自身の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神」やその啓示〙に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ところの「存在者レベルでの神」である、また「人間学〘ヘーゲルの歴史哲学〙の後追い知識」として「神学と一般の学問」、「特殊と普遍」、「救済史と普遍史」とを混合させようとしたモルトマンの「混合神学」(喜田川信『歴史を導く神――バルトとモルトマン』)――詳しく言えば、「(中略)東洋の光輝の中では個性は消えて見えない。西洋において、はじめて光は思想の閃光となる。思想こそ、自分の中で脈動していて、そこから進んで自分の世界を創造するものである。だから西洋の至福とは、主観が主観としてありながら実体的なものの中に生きるところにあると言ってよい」、「人間は本来、理性的であると言えば、人間は素質の形で、萌芽の形で理性を持つことを意味する。この意味において人間は理性、悟性、想像、意志を生れながらにもつ。(中略)しかし子供〘例えば、人類史に引き寄せて言えば、狩猟採取を経済的基盤とし自然にまみれた原始未開の段階の人間や農耕を経済的基盤とし自然を原理としたアジア的段階の人間〙は、このような理性の能力〘人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能、人間の自由な内面の無限性〙、あるいはその可能性を単にもつというだけであるから〘換言すれば、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を認識し自覚していないから〙、理性をもたないのと同じである。そしてそれ故に、自由でもないのである」、「すべての人間が本来、理性的であり、そうしてこの理性的ということの形式こそまさに 自由だということである……(中略)一方アフリカ民族およびアジア民族と、他方ギリシャ人、ローマ人および現代人との唯一の区別もまた、(中略)後者が自由であることを自分で知っており、それを自覚しているのに、前者は彼らもまた自由であるにかかわらず、それを知らず、自由なものとして実存しないことなのである」(『哲学史序論―哲学と哲学史―』)と思惟し語った「ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念における宗教とは、自由と理性の理念である」が、「律法・父の国・奴隷状態の歴史」(人類史的世界史的段階で言えば、経済的基盤を狩猟採取に置き自然にまみれた原始未開の段階。因みに、フレイザーは『金枝篇』で、西欧にもあったアフリカ的段階の名残について、すなわち自然宗教、アニミズムとしての「樹木崇拝の名残り」について述べている。すなわち、「樹木の精霊がその力のうちにもっている祝福を、村やめいめいの家へもち帰るところにある」、「一般の生育の精霊や樹木の精霊は、樹、枝、花などのような植物の形であらわされている」場合と、それらと「人形または実際の人物との組み合わせ」、すなわち植物人間形態で表される場合とがある、例えば「花嫁」の「花」と「嫁」がそれである。「少女たちの一人を花冠で飾り五月の花嫁として仕立て、少女たちは家を巡って、それぞれの家でその五月の花嫁は贈り物を求め、その求めに応じれば年中豊かであり、その求めに応じなければ何も与えられない、という歌を歌う」ということを述べている。日本で言えば、巨樹、滝、巨岩、湧水、動物等に霊(神)が宿るとされた八百万の神がそれである。人類史におけるアフリカ的、縄文的、北アメリカ原住民のインディアン的、オーストラリアのアボリジニ的段階を速やかに超え出たとはいえ、経済的基盤を資本主義に置き自由を原理として現存する西欧も、アフリカ的段階を経由してきたのである。しかし、フレイザーは、現存する西欧的段階におけるアフリカ的段階の名残を紹介しただけで、それを人類史の母胎・母型・原型における世界普遍的な在り方であるとは把握しなかった)、「恩寵・子の国・神の子供状態」(人類史的世界史的段階で言えば、経済的基盤を農耕に置くことによって自然から対象的にはなったけれども、自己意識・理性・思惟によって自然から対象的になって距離を取り得ていないが故に、すなわち「自然によって規定されている」が故に、換言すれば人間の自由な自己意識・理性・思惟の能力、自由を認識し自覚していないが故に、自然から超出できず自然を原理としたアジア的段階)、「自由・霊の国・神の友の状態」(人類史的世界史的段階で言えば、経済的基盤を資本主義に置き、人間の自由な自己意識・理性・思惟の能力、自由を認識し自覚して、人間の自己意識・自己意識・理性・思惟によって自然から対象的になって距離を取って自然から完全に超出し、自由を獲得した自由を原理とする西欧的段階)という神学的な三段階的進歩史観(山崎純『神と国家』)における「存在者レベルでの神」である、また「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にあるヘーゲルの強力な痕跡を持った」近代主義的自由主義的プロテスタント主義的キリスト教的神学者の「シュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学〘すなわち、「人間学の後追い知識」としての「人間学的神学の主題と方法を再び採用し」、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマン神学〘ブルトマン学派〙」(『ヘーゲル』および『バルト自伝』ならびに『ルドルフ・ブルトマン』)に対して、前期と後期の全体において思惟し語ったハイデッガー自身は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる〘人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界としての〙存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〘聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〙神を見失うことではなかろうか』」と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判をなしているが、そのような「存在者レベルでの神」である(木田元『ハイデッガーの思想』)〕」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な(「神についての聖書的な証言」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」⦅様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>⦆における「神とは異なるすべてのものに対して持つ神の優位性を、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由〔「すべての外的被制約性からの自由」〕、「神の独立性」として、神とは異なるものとのその「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神の自存性」、「自存性としての神の自由」として、「ご自身の中での神〔「自己自身である神」〕が、それらを〔イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕実証することによって、外的条件づけからの神の自由〔神の独立性〕に相対しても自由であることの中で見ている。すなわち、神についての聖書的な証言は、神の優位性を、神の独立性と自存性との全体性における完全な自由の中で見ている」)聖性・秘儀性・隠蔽性(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)において存在しているが故に、そこにおいてはそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は神の不把握性の下にあるということからして、聖性・秘儀性・隠蔽性において存在しているご自身の中での「神は、ただ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠し」としての「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下」、「啓示の<秘義>」)イエス・キリストにおける〕啓示を通してだけ〔ただその<客観的な>啓示の実在を通してだけ〕、ただ聖霊を通してだけ〔ただその<客観的な>「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的>な「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」を通してだけ〕、知られ得る」。「このとは、まさに啓示の客観的な実在の認識と共に、すなわち〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間〕イエス・キリストの認識と共に初めて、神は隠れた神であるということについて決定が下されているのと正確に事情は同じである。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊――この方を通して、神がわれわれの中に〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して〕宿り、われわれを神の宮となし給う聖霊は、神と人間をあれほど強く・〔「聖書の主題である、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で〕あれほどまでに決定的に引き離すので、神と人間が一つである単一性〔区別を包括した単一性〕は、実際、神が人間によって無条件的に崇拝されることを伴いつつ、神の自由な恵みの単一性以外のものとして理解されることができない〔<主観的な>「認識的な<必然性>」は、<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での「主観的側面」である、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」に基づいて「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」〕」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「語り手の言葉」)である<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える「聖霊は、われわれを神と和解させる言葉の教師として、神についても、それからまたわれわれ自身についても、〘この段落最初の方で述べたような〙決定的なことをわれわれに語り、したがってわれわれの前に全能の主として、神の愛を、まさに徹底してわれわれの功績によらず、徹頭徹尾われわれがそれを受け取る際の態度や努力によっては全く条件づけられていないという意味で、無限の愛として示す。しかし、聖霊は、われわれ自身を、先ず第一に例えば取るに足りない者、微々たる者、有限な者として、神の前に明らかにするのではない。すなわち、聖霊は、われわれを、先ず第一に、〔聖書の中で証しされている〕主に対する反逆者として、主の善意を忘恩的に踏みにじる者として、主の招待を拒否する者として明らかにする」――『福音と律法』に引き寄せて言えば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、『福音と律法』によればそのこと自身が「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」であるのであるが、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、「神人協力」も「神人協働」も「神人共働」もということを目指すところの、生来的な自然的なわれわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」として、〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活〘福音、神の恵み、神的な然り、生〙に包括された死〘律法、神の裁き、神的な否、死〙において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリスト<の>信仰』は〔すなわち、『イエス・キリスト<の>信仰』の属格は〕、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。〘なお、先ず以て「目的格的属格」として理解し解釈された先ず以て人間的な契機を媒介させる理解の仕方は、人間「ルターの翻訳〔既存の聖書訳を含めて〕の<絶対化>、<無謬性化>である」(何故ならば、ギリシャ語原典における属格の<の>は、<主格的>属格――すなわち「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」としても、また<目的格的>属格――すなわち「イエス・キリスト<を>信じる信仰」としても理解し解釈することができるからである。したがって、ここで問題となるのは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)として理解し解釈しないところの、<目的格的>属格(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解し解釈するところのその理解の仕方は、その<度合い>は別にしていずれにしても人間的な契機を媒介させることになるということからして、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく<われわれ人間も>、<われわれ人間の>欲求・自主性・自己主張・自己義認の欲求<も>という、「神人協力」・「神人協働」もという、「不信仰、無神性、真実の罪」を生じさせてしまうことになるという点にある。そしてその時には、聖書の中で証しされている「イエス・キリストにおける『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の中心のその事実を、まだ知らぬすべての人々」に対して、非キリスト者や非知に対して完全に開くことができないのである)〙。このような訳で、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」⦅「イエス・キリスト<を>信じる信仰」⦆として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰⦅「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」⦆に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「『福音と律法』の<現実性>における勝利の福音の内容」)。「聖霊は、神をわれわれの父と呼び、人間をこの父の子供と呼び、神を、神に向かって全く役に立たないわれわれの目・耳・心の中に受け入れられるようにし、われわれを、われわれの行為を少しも必要とし給わない〔神の側の真実としてのみある〕神の行為の実在の中へと取り上げる。そのようにして、不可知論的な世の知恵がそれについて夢想だにしなかった境界線、ましてや視野の中におさめることはなおさらできない境界線が引かれるのである。この境界線は、まさに聖霊の中でこそ、混同されたり除去されたりすることなく、確かに引かれたままで<あり続ける>」。聖書の中で証されている「啓示の<秘義>」としての「クリスマスの<秘義>」は、「神の恵みの実現の<秘義>」、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>のことである。そして、この聖書の中で証しされている「啓示の<秘義>」(「クリスマスの<秘義>」)は、その「<しるし>」――すなわち、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>」(「第一の条項」)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>」(「第二の条項」)という「クリスマスの<「クリスマスの<奇蹟>>を通して語って来て聞かれる」ということからして、「奇蹟は、あくまで奇蹟であることをやめはしないであろう。奇蹟は、〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」としての〕救済が<完成>される永遠に至るまで奇蹟であるであろう〔したがって、キリスト復活から復活されたキリストの再臨までの「聖霊の時代」、「中間時」、終末論的限界の下において「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>おいて終末論的に語る。ここで終末論的とは、われわれの経験と感性〘われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〙にとっての<いまだ>であり、〘神の側の真実としてある〙成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」〕」。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「自分たちが、神の子供であることがあくまで奇蹟で<あり続け>、それ故にそのことは神の<自由な>恵みであり、それについては無条件的に伏し拝むことしかできず、それ故にあの境界線が引かれたままであり続け、それ故に〔個体的自己としての全人間は、人間化された自然を含めて普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行うとしても、類的機能を持った自由な自己意識・理性・思惟を駆使するとしても、そういう〕自分からその境界線を踏み越えるができない人間の不自由さの認識を持ち続けるそういう者たちが、神の子供である。聖霊の働きの中でたとえ人がそれを否定しようとしてもどうしても否定することができないということが自分の身に出会った者こそが、神に向かって開いている自分に固有な自由〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で、「神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>」〕、それであるから神の啓示の受領者となる人間自身の可能性は、人間に全く帰せられることができないということを知っている」。
われわれは、「啓示からしてだけ〔客観的な啓示の実在、イエス・キリストからしてだけ〕、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊の業が〔すなわち、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」をわれわれに贈り与えるところの、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」が〕、神は、人間に対して啓示されてあること〔「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)としてのそれ〕が<できる>ということに<味方して>語っているということ、またただ啓示だけが、人間は啓示されてあることができるということに反対して語っているということ〔すなわち、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なわれわれ人間は、啓示されてあることは<できない>ということを語っているということ〕――この両方のことを、ただ啓示からしてだけ語ることができる。神の啓示が人間の身に起こること〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられること〕ができるということがどのように可能となるのかという問いに対する根本的な答えは、そのことはただ〔<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中で主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊の注ぎの中でだけ実在であるのであるが、ただ〔<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中で主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊の注ぎの中でだけ可能となるということである」。
(一)
「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〔<客観的な>「存在的な<必然性>」〕の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」――この「<聖霊の注ぎの中で、神の啓示が人間の身に起こること〔すなわち、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられること〕ができるということ>は、<聖霊の注ぎの中で、神の言葉が人間に聞かれるようになる>という理由の故に、〔「わがまま勝手な」われわれ人間の恣意的独断的な企ての中でではなく、「神に向かって自由である神のための人間の自由」としての〕<人間の自由の中で可能となる>」。「われわれは、〔ただ<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」の中でだけ実在である〕啓示の主観的な<実在>を記述するに当たって、全線にわたって次のことを強調した」――それは、「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「啓示の主観的な実在は、ただ単に啓示の客観的な実在に厳格に拘束されているだけでなく、啓示の主観的な実在は、まさに啓示の客観的な実在が主観的になることであって、それ以外の何ものでもないということである。聖霊は、それが父および子の霊であることが確かである限り〔言い換えれば、「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊は、その交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手〘すなわち「啓示者」、「創造者」〙であり、子は父の子、語り手の言葉〘すなわち「起源的な第一の形態の神の言葉」、「啓示」、「和解者」〙であるところの行為〘・性質・働き・業〙である。ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある。愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である。愛は、自由がそうであったように、神ご自身においてのみ実在であり真理である。この聖霊は、三度目の最後的な存在の仕方として〘すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――として〙、神にとって最高の法則・愛であって、その神的愛に基づく父の起源的な第一の存在の仕方と子の第二の存在の仕方の交わりであり、神と人間との交わりの根拠である」であることが確かである限り〕、すなわちただご自分のみ子の中でだけ啓示し給う父の霊であることが確かである限り〔すなわち、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である。この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する。〘その内在的本質から言えば〙父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」ということが確かである限り〕、イエス・キリストの霊である」。このような訳で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」として「第二の形態の神の言葉」(最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の客観的な信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教に関わるすべての成員としての「われわれは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊とその業についても、ただ〔「第二の形態の神の言葉」(最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である〕聖書の中で証しされているただ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕イエス・キリストにあっての啓示を〔教会の客観的な信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教に関わる成員として、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、〕注釈しつつ語ることができるだけである。したがって、われわれは、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――この〕受肉の唯一性に対応しつつ、イエス・キリストが頭として、彼に属する者たちの中にその兄弟を持ち給うということの中で、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での<客観的な>「存在的な<必然性>」――すなわち、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、この〕啓示が主観的に実在となる唯一の場所として〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「啓示されてあること」、詳しく言えば「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学、<福音主義的>教義学の問題)とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、それ故に一般的倫理学の問題や「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」からするそれではなく、純粋なキリストの勝利の福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの勝利の福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくところで主観的に実在となる唯一の場所として〕、〔「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りと行動の原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」としての、詳しく言えばイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〘<客観的な>「存在的な<必然性>」〙の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、啓示の主観的な実在としての神の子供たちの生としての〕教会を指し示したのである。そのような訳で、次に〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において「啓示との<間接的>同一性」にあるその「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会の概念の中で、もう一度客観的なサクラメント的な要素が強調されなければならない〔すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における「第二の形態の神の言葉」(その最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし」>」の<しるし>)である教会の宣教(説教と聖礼典)が強調されなければならない〕。そして最後に、それとの関連で、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた〕啓示の受領者としての人間について、換言すればキリストを通しキリストのために勝ち取られた者たちについて語らなければならなかった」――「これが、神から人間に向かって進み、人間に到達する啓示の実在である。われわれは、さし当たってまず、繰り返し、まさに<そのことだけ>が、そのような啓示の<可能性>であるということを強調することができるだけである〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――このイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に「信頼する」ことが重要であるにも拘らず、そうはしないところの、それ故に聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、「啓示神学」に依拠しないところの、換言すれば「一般的な啓示」、「一般的な真理」、「存在の類比」、「『自然』神学」に依拠するところの、それ故に生来的な自然的な類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された(表現された)人間の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神」に依拠するところの、例えば「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在、造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」というアウグスティヌスの思惟と語りにおける創造主の跡は、聖書の中で証しされている「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」ものである〕」。「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「人間にとっては、ただ聖霊の中で<神の言葉>が聞かれるようになるという理由の故にだけ〔換言すれば、ただイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるという理由の故にだけ〕、人間は、聖霊の中で〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」において〕神の啓示を受けることができる。聖書によれば、啓示に関してあり得ること、啓示に関して客観的あるいは主観的に可能であることはすべて、〔「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)としての〕三位一体の神の存在、意志、行為の中に含まれている。すべてのできることは、ここでは<三位一体の神>のできることであり、われわれにとってそれは<三位一体の神>の働きから見て取ることができるものである〔イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求する〕。再び聖書によれば、その<三位一体の神>の働きは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における〕その言葉の働き、み子の業である。<み子の働き業と違うもの>は、直接あるいは間接に、先ず〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられることを通して、またその<客観的な>「存在的な<必然性>」と<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの<客観的な>「存在的な<ラチオ生>」――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を通して〕啓示を受けとらなければならず、先ずみ子の神的な働きと業を通して和解されなければならないところの<われわれ自身の働きと業>である。それであるから、啓示に関してのすべてのできることは、事実、具体的には〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における「神の子あるいは神の言葉」としての〕言葉のできること、すなわち〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」)〕イエス・キリストのできることである。事情は、それと別様であることはできない。われわれが、どのようにして人間は神の言葉を聞き、キリストを信じ、キリストの体の一つの肢体であり、キリストの兄弟として神の子供であることに来るのかを問うに際して、〔「自己自身である神」としての聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の〕その把握できないものが、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」)イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中において〕人間にとって把握し得るものになることができるということは、すべてその把握できないものそのもの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」、まさに「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における「ひっくり返すことのできないひとつの等置」において「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリスト〕によってかかっていると言わなければならない〔イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求する〕」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての「言葉が、〔その「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で〕われわれが言葉を聞くということを造り出す、〔また主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである〕イエス・キリストが、われわれがイエス・キリストを信じるということを創造する〔このような訳で、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意ができている」ところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に「神の認識可能性である」ところの、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の言葉」)・「和解者」としての「子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事」――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「<秘義>の啓示」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」)「イエス・キリストにおいて、神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〘「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〙に向かっての人間の用意が存在する」、包括的に言えば「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」〕。このような訳で、『われわれに与えられた聖霊を通して』ということも、その可能性を、まさに神の愛の中に持っているのであって〔聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示によって明らかにされたところの、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての神の「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての神の「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中に持っているのであって〕、それ以外のところには持ち得ないのである」。「言い換えれば、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕聖霊の業は、われわれに、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉」としての〕言葉以外のほかのものを聞かせるのではなく、まさに〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉」としての〕<言葉>を聞かせるが故にこそ、われわれが言葉を聞くことに対する十分な理由を意味している。〔<客観的な>イエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊は、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」における〕イエス・キリストの霊以外のいかなる霊でもあり給わないが故に、聖霊の業は、〔<主格的>属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)、すなわち「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの(この「完成」は、復活されたキリストの再臨、終末を待たなければならない)である〕キリストを〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられることを通して〕信じるわれわれの信仰の、そしてキリストとわれわれの交わりの十分な理由を意味している。この聖霊の業は、啓示の客観的な実在が主観的となるなること以外の何ものでもない〔詳しく言えば、われわれに贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「<聖霊>の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいているということが、聖霊の業である〕。言い換えれば、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・技・行為)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としてのかみの自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊の業は、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕<キリストの体>の生きること、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である〕預言者的および使徒的<証言>〔「単一性と区別」(区別を包括した単一性)において「啓示との<間接的>同一性」において存在している「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共の神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」〕が働くこと、〔聖書を自らの思惟と語りと行動の原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教――すなわち〕<説教>が聞かれること・<聖礼典>が指し示していることことが見て取られること以外のものでないが故に〔聖霊の業は、「啓示されてあること」、すなわち「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)以外のものでないが故に〕、啓示の主観的可能性を意味している〔詳しく言えば、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)は、啓示の主観的可能性を意味している〕」。「『問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間である』『キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)』、『キリスト復活四十日の福音』『まことの過去』と『まことの未来』を包括した『まことの現在』(すなわち、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの(この「完成」は、「復活されたキリストの再臨」、「終末」を待たなければならない)としての〕復活日と〔「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる」〕聖霊降誕日とは、二つのこと――すなわち、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、〕<客観的であること>〔<客観的な>「存在的な<必然性>」〕と<主観的になること>〔その<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」〕、言葉と霊、神的な提供と人間的な受領という二つのことである。しかし、われわれは、後者のものの可能性を問う時にこそ、前者のものに立ち返りつつ前者のものに基づいて、後者のものはその可能性を徹頭徹尾前者のものの中に持っていると言うことができるだけである」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」における「啓示されてあること」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての「聖霊は、それが〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉」としての〕言葉の霊であるが故に〔すなわち、それが<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」が故に〕、神の霊である。まさにただこのような訳でのみ、〔「神に敵対し神に服従しない、肉であって、それゆ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」、また「自分が――つまり〘生来的な自然的な〙『自分の理性や力〘感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を原理とする禅的修行等々〙によっては』――全く信じることができない」〕われわれは、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊の中で、神に向かっての目と耳を与えられて持つことができる。それであるから、人は、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕<聖霊>と〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」における神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における〕われわれに対する<聖霊の業>を、まことに正しく理解したいと思う時には、決してそれ自身切り離して抽象的に理解しようとしてはならない〔木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその一面だけを抽象し全体化して、すなわち一面だけを拡大鏡にかけて全体化して理解しようとするのではなく、その全体性において理解しなければならない〕」。
前段にあるように、「人が、純粋に正しく啓示の主観的な可能性を問おうとし、それ故に〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊とその業を理解しようと欲する時にこそ、聖霊が来る方向を見〔すなわち、聖書の中で証しされている「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、啓示の<主観的な>実在である聖霊が来る方向、啓示の<客観的な>実在であるイエス・キリストを見〕、聖霊がもたらすもの、われわれに対して聖霊の中で差し出された神のみ手を満たしている内容、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える〕聖霊を通しわれわれの心の中に注がれた神の愛、〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会のすべての成員、〕われわれと〔「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされている〕キリストとの交わりの客観的な可能性〔すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、換言すれば「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性における「啓示との<間接的>同一性」において存在している「啓示の<しるし>」)である聖書、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教(説教と聖礼典)の現存〕、すなわちキリストご自身を見ることが大切である〔すなわち、聖書を媒介あるいは反復することを通して、換言すれば「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストご自身を見ることが大切である〕」。「ただこのように視線を向けることの中でだけ、またここで身近なわたしは聖霊を持っているという問いが答えられなければならない。然り、『キリストの霊を持たない者は、彼に属するものではない』(ローマ八・九)。しかし、この持っているかどうかという問いは、聖霊がキリストの霊であるが故に、〔われわれ人間の決定事項として〕われわれが『持っている』と考えることができるところで決定されるのではない〔ちょうどそれが、「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」として神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ように、それ故にそれは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〘「祈りの態度」〙に対し神が応じて下さる〘「祈りの聞き届け」〙ということに基づいて成立している」ように〕。むしろそれは、われわれにとってはいずれにしても、ただ『わたしに来る者を決して拒みはしない』(ヨハネ六・三七)と語り給う方としてのその方に新たに身を向けつつ、それを持つことができるキリストによって決定されるのである〔すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事〘<客観的な>「存在的な<必然性>」〙の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」〘<主観的な>「認識的な<必然性>」〙の中での<客観的な>「存在的な<必然性>」としてのキリストによって決定されるのである(何故ならば、『神の恵みの選び』によれば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の<言葉>」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける啓示の出来事〘<客観的な>「存在的な<必然性>」〙の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」という点にあるからである)〕」。「まさに〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)、すなわち<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――この〕啓示の主観的可能性のまことの正しい教会の宣教こそが、換言すれば〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による、われわれに対して「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるところの、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(聖霊の業)――この〕聖霊降臨日の聖霊についてのまことの正しい説教こそが、……〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神がわれわれをとらえ給うこと、それと共に再びまた〔その「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持ち給う〕キリストご自身を指し示すことから成り立っている〔「聖書によれば、聖霊は、われわれ人間の救済主である」。しかし、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「聖霊は、救済主であるだけでなく、子とともに、子の霊として、また和解者でもあり、また父および子とともに創造主なる神でもある。新約聖書のイエスは主であるという証言は、神性を内在的本質とするイエスを、事実の承認として、思惟の初めとして語っている。したがって、このイエスは主である、子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰、神との出会いであるイエスとの出会い、信仰の出来事」、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による。この時、啓示の主観的な実在としての「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた者、神の子供たちの生は、教会(すべての成員)の実在は、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性における「啓示との<間接的>同一性」において存在している「啓示の<しるし>」)である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教会教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、すなわち純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人びとがキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(「一人のキリストに基づいている教会の単一性」)を目指していくことから成り立っている。したがって、例えば「平和の祈り」も主の祈りの「み国を来たらせ給え」から切り離された「平和の祈り」から成り立っているのではない、その「問題を明確に提起する」ことなしになされる、それ故にその問題の解決とはならないところの、<政治的な>憲法擁護運動や平和運動に邁進することや「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」からなされる<社会的な>奉仕に邁進すること等から成り立っているのではない、一般的倫理学から成り立っているのではない、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行うことに、大規模な世界改良の偉大な計画に、大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」ことから成り立っているのではない〕」――このような訳で、そのような「第三の形態の神の言葉」である教会の「宣教あるいは説教は、言うまでもなくそのようなものとして、意識的にあるいは無意識的に必然的に一体自分は実際の聞き手および行為者であることができるのかという問いの下に立っている聞き手に対して、ごく僅かでも彼のあるいは説教者のあるいはほかの人たちの<経験>〔その人たちの感覚と知識を内容とするそれ、その自己告白、自己表現〕を指し示さないで、むしろ少しばかり『頑固に』、そこで書かれていることあるいは彼の洗礼の方にあるいは聖なる晩餐の方に視線を向けさせる……。また、そのような宣教あるいは説教は、彼のためにも死なれ甦り給うた〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)、すなわち「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの(この「完成」は、「復活されたキリストの再臨」、「終末」を待たなければならない)である〕キリストを信じる信仰以外のほかのものを持ってくる……ことはしない……」。したがって、「経験〔その自己告白、自己表現〕は、……キリスト教の宣教〔説教と聖礼典〕の対象ではない。〔「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教、〕キリスト教の宣教は、まさにそれが、<全く>実際的に<現実的に>人間に対して向けられている時にこそ、聞き手を経験〔その自己告白、自己表現〕へと導きはしない。むしろ〔「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教、〕キリスト教の宣教は、すべての経験〔その自己告白、自己表現〕を通して貫いて、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して〕<まことの正しい経験>の<源泉>へと、換言すればキリストへと導くのである〔ただ神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間(神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の人間存在」)イエス・キリストにおける啓示(啓示の真理)の場所だけが、われわれ人間の、人間の個と現存性(人間の個の時間性、自己史・個体史)―人間の類と歴史性(人間の類の時間性、人類史・世界史・歴史)の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である。その場所は、「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」としての神学における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもある〕」。「以上を要約すれば、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間〕キリスト、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神の言葉、聖霊の注ぎを通して人間が聞けるようになる神の言葉こそが〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての神の言葉こそが〕、人間の神の啓示の受領者である可能性である〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて人間が聞けるようになる神の言葉こそが、啓示の<主観的な>実在である「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生の可能性である〕」。このような訳で、「この受け取ること、われわれにとって神が啓示されてあることは〔聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)――すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」は〕、事実それ自体啓示であり、そのことはキリストにあっての言葉の受肉〔換言すれば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間(神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)〕に関して言われなければならないのと同じ意味で、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」に基づく〕神の主権的行為であり、われわれのもとでの神の現実存在の秘義〔「啓示の秘義としてのイエス・キリストはまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「『まことの神にしてまことの人間』という実在としてのイエス・キリストの人格」〕および奇蹟〔クリスマスの奇蹟――すなわち、「啓示の秘義」の<しるし>としての「イエス・キリストは聖霊によって宿り給うた」(第一の条項)、「イエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うた」(第二の条項)という「クリスマスの<奇蹟>」〕であり、自由な恵みの勝利である」。
「そのわれわれの第一の主張と考察が、決して勝手に捏造されたものではなく、新約聖書から、それと共に……旧約聖書から取られているということは、特にとりたてて証明するまでもないことである。聖霊は、まさに<キリストから>来るということ、そして聖霊と共に徹頭徹尾すべてのことは、教会をして教会たらしめ、キリスト信者をしてキリスト信者たらしめるすべてのことが来るということ、それであるから、恵みは、それが罪を赦す恵みとして理解されようと、あるいは聖化し、賜物を与える恵みとして理解されようと、いずれにしても<キリスト>の恵みであり、教会の中での霊の賜物は徹頭徹尾教会の主としてのキリストに従属せしめられており、キリストを標準にしてはかられるならば、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」)である〕使徒は〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕<キリスト>の下僕であり、使徒の言葉はキリストが委任し給うたものであり、内容的には常にあらたな表現を用いて<キリスト>を指し示すことであり〔すなわち、「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」である神学が、ある歴史的現存性のその時代と現実の中で、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界のその途上性で、絶えず繰り返し、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしての聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神、キリストの勝利の福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくことで、<キリスト>を指し示すことである〕、ただ<キリスト>への指し示しでのみあるということは、新約聖書の福音書の使信の中でも、使徒書の使信の中でも、黙示録の中でも、最も自明的な線の一つである」――「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みをいささかも疑わずに待ち望んでいない(Ⅰペテロ一・一三)」。
「われわれは、ここで、……明確な仕方で西方の教会は、〔聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己啓示としての〕神の啓示の中での聖霊をイエス・キリストの霊として、そしてこの方と切り離せない仕方でただイエス・キリストの霊としてだけ認識すると考えたので、聖霊は、ただ単に今ここで、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての神の「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての神の「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>としての〕われわれのためだけ父と子の霊であるだけでなく、また〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」ということからして〕聖霊は永遠からして、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕啓示の中でわれわれに明らかにされる〔「自己自身である神」としての〕<隠れた>三位一体的存在の中でも父と子の霊であると告白しなければならないと信じたところ、西方の教会が聖霊は永遠的に出ずることに関して、……<オヨビ子ヨリ>〔「フィリオクェ」〕を父ヨリと並べて信条〔ニカイア・コンスタティノポリス信条〕の中に取り上げた根〔「フィリオクェ」、「父ト子ヨリ出ズル御霊」、聖霊の出自の問題の根〕の前に立つ〔「われわれは、「フィリオクェ」に関してこそ、断固として西方の教会の側に身をおかなければならない」〕」。「聖霊は、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」ということからして、〕<永遠からして>父と子の間の交わりであり、したがってただ単に父の霊であるだけでなく、またみ子の霊でもあり給うが故に、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕聖霊は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕神の啓示の中で、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕父と〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕父のみ子がご自分の兄弟とするために召された者たちの間の交わりであることができる〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「聖霊なる神は、三度目に、父と子の二つの存在の仕方から生じる一つの存在の仕方である。しかし、この〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在における神の自由な愛の行為の出来事――である〙聖霊の存在の仕方は、〘「啓示者」・「言葉の語り手」である〙父と〘「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)である〙子の啓示に対する特別な第二の啓示ではない。聖霊は、〘「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての〙父なる神と〘その「父が子として自分を自分から区別した」〙子なる神の愛の霊である」――この「父ト子ヨリ出ズル御霊――これは、聖霊の<神性>の定義である〘この聖霊の<神性>が、「啓示されてあること」、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、「救済」を生じさせるのである。ちょうど次のようにである――すなわち、「三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその存在〘その外在的本質である「第二の存在の仕方」〙は<神性>を内在的本質としているから、イエス・キリストは、啓示の出来事においてはじめて神の子、神の言葉となるのではなく、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〙父を啓示するもの、そしてわれわれを父と和解させるものとして、イエス・キリストは神の子、神の言葉〘神の「第二の存在の仕方」〙である。〘その内在的本質である〙キリストの<神性>は、〘その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、すなわち〙啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識することができる〘イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求する〙。〘その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〙啓示と和解がキリストの<神性>の根拠ではなく、〘その内在的本質である〙<キリストの神性>が啓示と和解を生じさせる」ようにである。そこに聖霊の起源〘、出自〙がある。この聖霊において、父と子は、神的愛に基づく完全な共存的な交わりである。すなわち、聖霊は、その交わりの中で、父は子の父、言葉の語り手〘・啓示者〙であり、子は父の子、語り手の言葉〘・啓示〙であるところの行為〘性質・働き・業・行動、神の「第三の存在の仕方」――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〙である。ここに、神は愛、愛は神であることの根拠がある。愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である。この〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である〙聖霊は、三度目の最後的な存在の仕方として〘「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)として〙、神にとって最高の法則、愛であって、その神的愛に基づく〘「啓示者」・「言葉の語り手」としての〙父と〘「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)としての〙子の交わりであり、神と人間との交わりの根拠である」。「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。〘「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による〙この<聖霊の注ぎ>より聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は、キリストにある自由〘「神に向かって自由である神のための人間の自由」〙を意味している」。「この聖霊は、復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」、「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊であるから、われわれは聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる。そしてまた、和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たちは、〘「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、授与者と受領者との無限の質的差異において、〙神の子供である」〕。何人も、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕み子を通してのほかは父のみもとに来ることができないということが永遠からして神の中に基礎づけられている。何故ならば、父がご自分の子供たちをみもとに引き寄せ給う霊は、永遠からしてまた〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」〕み子の霊であり、父は、ご自分の霊を通して、誰をもみ子以外のところに引き寄せた給わないからである」。
「中世の西洋におけるキリストの後に従う生活と愛を強調し励ましすすめようとしたフランシスコ派の聖霊キリスト教は、明らかに客観的な啓示が主観的となるという関心事を代表しようと欲した」が、「しかし、フランシスコ派の聖霊キリスト教が、歴史的キリストを、その霊の担い手としてのキリストの弟子をその前面〔前景〕に浮き立たせながら、いわば時代遅れになったとして背景〔後景〕に退かせることができると考えた時、それは、実際はフィリオクェ〔前段で述べた「啓示の中でわれわれに明らかにされる〘「自己自身である神」、「ご自身の中での神」としての〙<隠れた>三位一体的存在の中でも父と子の霊であると告白しなければならないと信じたところ、西方の教会が聖霊は永遠的に出ずることに関して、……<オヨビ子ヨリ>〘「フィリオクェ」〙を父ヨリと並べてニカイア・コンスタティノポリス信条の中に取り上げた聖霊の出自の問題、「父ト子ヨリ出ズル御霊」〕の中で語られていた認識およびキリストと霊が一つであるという新約聖書的単一性の認識の解消を意味していた〔すなわち、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)という新約聖書的単一性〘「単一性と区別」、区別を包括した単一性〙の認識の解消を意味していた〕。この、人が聖霊をキリストから切り離してしまうところ、そこでは、聖霊は、遅かれ早かれ全く別な霊に、換言すれば宗教的人間の霊に、さらにそこから一歩前進してそもそも人間の霊〔、魂、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟〕に解釈し曲げられてしまう。このような訳で、フランシスコ派の聖霊神学から人文主義的ルネッサンスの人間論へと通じる関連性は明らかである〔バルトは『説教の本質と実際』で、「説教者は、聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない。説教は語ることであるが、それは、〘説教者が、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で〙……一語一語準備し、書き記しておいたもののことである」と述べている。それに対して、東京神学大学の実践神学者の小泉健が、ルドルフ・ボーレンの説教学に依拠して、バルトやトゥルナイゼンの神の言葉の神学においては人間の経験(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍と言ってもよい)位置づけが弱いと述べている。しかし、その小泉自身は、現存する人間の経験についての具体的な論述をしていないのである。バルトの生涯およびその神学の概念構成の総体性を公正によく理解すれば、ルドルフ・ボーレンやその支持者の小泉健および東北学院大学の神学者の佐藤司郎たちのバルトの神の言葉の神学は人間の経験の位置づけが弱いとするその認識自体が間違っているのである。ここで、以前の経験則が通用しなくなっているところの、現存する歴史的現存性の時代と現実に強いられたところでの経験について言えば、例えば次のように言うことができると考える――すなわち、資本主義の高度化と自由主義国家の成熟は「私利、私意」の優先意識、私的利害および恣意的自由の優先意識を蔓延させ、個人を現実的に侵害しないところで成立する個人主義ではなく個人を現実的に侵害する利己主義を蔓延させ、価値意識(価値観)の多様化をもたらせ、関係意識の希薄化をもたらせ、共同体統括力の衰退をもたらせ(それ故に、商業メディアでよく流される情報、例えば絆や思いやりや感謝や恩返し等々の言葉は、その裏返された表現と言える)、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、「高度な資本システムが人々を動かしている」ところの高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として「身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病」を生じさせ、イメージ価値を求めて自己身体までも消費の対象として元が分からなくなるくらいに美容整形へと走らせ(作家の中村うさぎは、2006年9月22日の朝日新聞の夕刊で、「現在顔で原型をとどめているのは口と鼻先の二カ所だけである」、「以前なら年をとれば容貌が劣化し、静かにあきらめていけたが、現代人はあきらめられない地獄に突き落とされている。私は消費社会の漂泊者でいたい」と述べている)、また完成された政治的な近代国家の場合、人間の思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられる。すなわち、一方で、現実的な社会において具体的に私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、他方で、観念の共同性を本質とする国家においてあたかもそうした対立や争いのない法的政治的な共同的観念によって統一された公的共同性の一員、公民としての生活との二重の生活を強いられる、また戦争の元凶である自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる民族国家は、巨大で強力な国軍の軍事力の拡大と高度化を目指している等々――これらのことを、現存する歴史的現存性の時代と現実に強いられた人間の経験を尊重すべきであると述べているボーレンンも小泉も佐藤も具体的に述べていない、ただ人間の経験の位置づけが弱いとだけ述べている。それに対してバルトは、具体的に、例えば「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない。しかし、このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、〘戦争の元凶である民族国家が現存する限り、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、〙戦争の可能性はあけておかなければならない」と述べている、また「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている。国家は支配であり、文化は支配である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」と述べている。〘因みにミシェル・フーコーも、「現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題は、国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治的権力とすべての諸個人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割とする『牧人的』(この社会的適用が教育制度、医療制度、監獄制度等であり、政治的適用が福祉政策である)と呼ぶことのできる権力の無化にある」と述べている〙。また「特定の人種や、民族、国民の特性および利益と折り合おうとする」ことはしないと述べている、バルトはまた「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされている「福音が〘「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)における説教において〙純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革およびキリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことはしないと述べている、また「第三の形態の神の言葉」である教会の「宣教の規準を、〘「第二の形態の神の言葉」である〙聖書と同時に、〘「人間学の後追い知識」としての〙最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは哲学、道徳、政治等におく」ことをしないと述べている、また最後的に観念の共同性を本質とするあらゆる国家は無化されなければならないから相対的評価において自由および直接民主制と武装永世中立の「スイスを〘そこで生き生活する大多数の被支配としての自分の家族や親族や友人たち等を〙ナチズムからまもるために私は軍隊に参加し、両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者〘ナチズムに迎合するドイツ・キリスト者〙の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」と思惟し語り行動すると述べている、「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」から、と述べている〙。<人間の経験を尊重>をすべきであるとするルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」という人間学的神学における概念に依拠して、聖霊や聖霊の言葉を人間の決定事項のようにして、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」とWeb上で書いた時、それは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの大学社会の神学」の場所において「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするもの」(吉本隆明『カール・マルクス』)に過ぎない〕」。
「われわれは、十六世紀において宗教改革者たちが、ルターを先頭に同じ戦いに従事しているのを見る」――「それらの言葉でもって聖ペテロは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕ナザレのイエスと呼ばれたこの方に対して、聖霊を注ぐという神的業を帰している。何故ならば、聖霊を注ぐということは、いかなる被造物もなし得ることではなく、たとえそれが天からのみ使いであろうと被造物にとってふさわしいことではなく、ただ神のみが持ち給う大能であるからである。また、このテキストによく注意せよ。ここでどのように〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間〕キリストが、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」〕聖霊をご自分の口に結びつけ、それがキリストの言葉を超えて先に進んで行かないことを、キリストの口を通して語られたすべてのことをあなたがたに思い出させ、あなたがたを通してさらに先に語って行くべきことを聖霊の目標にし、標準にしているかということに注意せよ〔換言すれば、「聖礼典的な実在」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「啓示されてあること」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)は、聖霊自身の業であるということに注意せよ。したがって、客観的な教会の信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」としての神学が、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということの<しるし>である」〕。言い換えれば、それは、常にただキリストの口から出て一つの口から他の口へという仕方で、キリスト教会の中で〔換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続する客観的な教会の信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教の中で〕、聖霊を通して教えられるであろうということである。何故聖霊は『証人』とよばれるのかという問いに対して、ルターは、『聖霊は、キリストについて証しするのであって、そのほか誰についても証しをしているわけではないからであると答えた。キリストについて証しする聖霊の証しのほかには、確実な永続的な慰めはない。それであるから、すべてのことは、人が、このテキストを確実に把握し堅くとって離さずに、わたしは、わたしのために死なれたイエス・キリストを信じる証人および慰め主と呼ばれ〔何故ならば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「信仰の出来事」は、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」によるからである〕・証人および慰め主であり給う聖霊は、すべての悲しむ者たちを慰め強めるために、キリストの教会の中で、ほかのものについて説教したり証しするのではなく、ただキリストについて説教し証しし給うことを知っている、と語ることによってもってかかっている〔教会の宣教における「説教の無条件的な出発点と目的は、新約聖書において聞く啓示、和解、『インマルエル、神われらと共にいます』である。したがって、われわれは、キリストからすべてのことを期待しなければならない。このことが終末論である。キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない。ここで説教は、感謝と確信と共に期待の態度と行動である。第一の来臨〘「受難と死および復活」――この「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〙と第二の来臨〘<復活されたキリスト>の再臨、終末、「完成」〙との間に〘聖霊の時代、中間時〙に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体とがある。説教は、説教者の自由事項ではないのであるから、自分自身の言葉〘恣意的独断的な自己告白の言葉、自己表現の言葉〙から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、聖書への絶対的信頼に基づく、聖書講解であることの義務を負っている。したがって、説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていないと考えるようなことがある限り〘すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、現存する歴史的現存性の時代と現実において必要なことを言いつくしていない、時代と現実についての知識や情報が不足していると考えるようなことがある限り〙、その説教者は、その信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていないのである。福音は、われわれ人間の思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にあるから、われわれは、われわれ人間の思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを、聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない。〘「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、その言葉自身がその言葉自身の自己運動を持っている中で、すなわちイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である〙聖書は神の言葉となるところで、聖書は神の言葉なのである。われわれは、聖書に聴従するために、その神の言葉の出来事の自己運動の中において」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断に基づく客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての主観的な「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて、「聖書によって導かれなければならない。説教者にとって、聴衆およびその事実をまだ知らぬすべての他の人々に語らなければならない彼ら自身に関する真理は、〘聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〙神がすでになしたわたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた、『インマルエル、神われらと共にいます』ということである〕。そこのところにわたしは踏み止まるであろう。決してそのほかの慰めに頼ろうとはしないであろう。聖霊は、キリストについて証しする以外のことをしないのである。もしわれわれが、ただそれはまことであり、聖霊の証であるということを堅く取って離さないでおり、そのことを喜びをもって信じるならば、慰めは空しく終わることはない。それらすべてのことは、ルターにおいては、〔先に述べた〕昔の対立と比べてはるかに立ち勝った仕方で、ただ単に彼の時代の<熱狂主義>に対して向けられているだけでなく、またそれとしての<教皇主義>そのものに対しても向けられている。その教皇主義に対して、ルターは、熱狂主義に対してと同様、教皇主義が、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕キリストなしに、キリストと並んで〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕聖霊の現臨と働きを前提して主張していることに異議を唱えた。ルターは、多くの脈絡の中で、最も仮借ない仕方でキリストと霊が一つであるという単一性を〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性。バルトの思惟と語りに引き寄せて言えば、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、客観的なその「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての主観的な「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)との「単一性と区別」、区別を包括した単一性を〕、われわれのために働く聖霊の働きは〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)」・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――このわれわれのために働く聖霊の働きは〕、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」)である〕聖書、〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教としての〕説教、聖礼典に結びつけられており、その働きにおいてそれらのものに照らしてはかられるべきであって、決して絶対的に〔木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にただその部分だけを拡大鏡にかけて全体化した〕『主観的な』照明、霊の鼓舞、熱狂的感激として理解されてはならない、と説明した。このように、結局、ルターにおいては、主観的なものの問題、すなわち神的な啓示と和解を受け取る人間の問題は、本来的な神学的な問題であったのであるが、霊について語ることがことができるために、霊から目をそらせてキリストの方を、それと共に教会の客観的側面全体の方を指し示す妥協を許さない仮借ない〔主観的な、主体的な〕<態度>こそが、……客観的な啓示がわれわれの主観的領域の中で突入してくる傾斜を明瞭にし繰り返し意識させる、という意味しかもっていなかった」。「シカシ、聖霊ガ教エルデアロウ、トキリストガ約束シ給ウコレラノコトスベテガナニカ、十分ニ注意シヨウ。聖霊ハワタシガ言ッタコトヲスベテ示スデアロウ、アルイハ思イ出サセルデアロウ(ト彼ハ言イ給ウ)。ソコカラ、彼ハアラタナ啓示ヲ決シテウチ立テハシ給ワナイダロウ、ト結論スルコトガデキル。コノ言葉ダケデ、ワタシタチハ、サタンガハジメカラ現在マデ、聖霊ノ名ノモトニイツワッテ教会ニ導入シテキタアラユル発明品ヲ、スベテ大胆ニ否認スルコトガデキル。マホメットモ教皇モ、イズレモ彼ラノ宗教ノ中デ、コノ原則ヲ立テテイル――聖書ニ教エガ完全ナ姿デフクマレテイルワケデハナイ、霊ハ、サラニ崇高ナコトヲ啓示シタ、ト。現代デハコノオナジハキ溜メカラ、再洗礼派ノ人タチヤ自由思想家タチガ、彼ラノ夢想ヲ汲ミトッテイル。シカシ、福音ヲヨソニシテ、何ラカノ教義ヤ発明品ヲモチ出シテクル霊ハ、ナベテペテン師の霊デアリ、決シテ神ノ子ノ霊〔あるいは神の言葉の霊〕デハナイ。ソレトイウノモ、キリストハ、福音ノ教エニイワバ同調シナガラ、ソレヲ確証スル霊ヲ、約束シテイルカラデアル(カルヴァン)。聖霊は、われわれの〔主観、主体〕の間に、新しい王国を打ち立てるのではなく、ただ父によって子に与えられた栄光を確立するのである〔聖書の中で証しされている「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「神の自由さ」、「神の完全さ」の教説の中で、キリストにあっての神としての「神は、(ドイツ語はここで、ほかの国語が持っていない表現能力を持っているのであるが)ただ単に主であり給うだけでなく、そのような方として栄光に満ちてい給い、他方すべての栄光は主なる神の栄光であるという認識〘「栄光と主との全体性においてイエス・キリストは栄光の主であるという認識」〙を遂行しなければならない。われわれは、ここで、まさにこの概念でもってはじめなければならない……。Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリストは、<栄光>〘聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等〙の<主>であり給う」――「そのような方として、認識され承認されている」、すなわち「主と栄光とを切り離して認識する切り離しは存在しない」〕。ソレトイウノモ、聖霊ガイエス・キリストノ言葉カラ切リ放サレルトスグニ、アラユル夢想トマヤカシトニ、門戸ガ開カレルコトニナルカラデアル。……ソレデハ、ドンナ意図カラ、霊ノ指導ノコトガ語ラレテイルノカ。ソレハ、霊ガワタシタチヲ、神ノ子ノ教エカラ遠ザケルタメデハナク、ムシロ彼ニ耳ヲ傾ケルコトヲ命ジテイルコノ言葉ガ、受ケ入レラレルタメデアル(カルヴァン)」。われわれは、「一七世紀のプロテスタント<正統主義>が、自分の務めをよく果たしたかどうかということを全く度外視しても、その宗教改革的認識の命題の内容と意義を明らかにしなければならない」。
「他方、宗教改革当時の再洗礼派の者たちおよびリベルテンの中にその先祖を持つところの<新プロテスタント主義>は、あらゆる形態において人間的なものを第二の啓示としてキリストにっての啓示〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示〕の傍らに並べて置き、それから急速な発展をたどってその第二の啓示の方を本来的な神の啓示としてキリストにあっての啓示の上に置くようになった遥か以前に、新プロテスタント主義がそのことを見かけ上は全然していないように見えたあるいは隠す術を知っていたところでも、新プロテスタント主義は、内的に聖霊からして知る認識と聖霊によって生きる生活を、キリストを信じる信仰の認識と生活に対して独立した主題として対置させることを通して、〔「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストの言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である〕新約聖書の〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である〕教会から離れていった。このような仕方で、新プロテスタント主義は、〔「まじめな経験主義」として〕客観的な啓示が主観的になるという関心事を代表しようとしたのであり、そのことは現在でもそうである。人が新プロテスタント主義に対して非難することができ・非難しなければならないことは、ただ新プロテスタント主義が、新約聖書の中で何の曖昧さもなしにはっきりと記述されており、古代教会の三位一体論の中で強固なものとされ、中世において曖昧さなしではなかったが主張され、それからまさに義認と聖化の宗教改革的神学の中でこそ忘れることのできない仕方で更新された認識――すなわち、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断による」、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える〕聖霊は〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」――啓示の客観的な実在としての〕イエス・キリストの霊以外のものでないないという認識を放棄し、それと共に、ただ余りにも多くの生真面目さと経験さもってアラユル夢想トマヤカシニ対シテ、換言すればすべての可能な異なる神々――すなわち、われわれが今日取り組まなければならない神々に至るまですべての可能な異なる神々を承認することに対して、門戸を開いてしまったという点だけである〔すなわち、包括的に言えば、ただ聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではないところの、普遍的で実践的な個体的自己としての全人間と全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動の時間累積の現在における宗教としての<科学主義>、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟、人間的欲求によって対象化され客体化された人間の物質的および観念的な生産物、人間の意味世界・物語世界としての「存在者」――この「<存在者>レベルでの神」、「<存在者>レベルでの神の啓示」、また古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象とする「<自然>崇拝」、また制度、システムとしての<階級対立>において貨幣、資本の自己増殖をもたらす資本主義的生産様式(労働量、労働時間を基準とする等価交換価値論)における「<物神>崇拝」(ミシェル・フーコーは、『セックスと権力』で、「マルクスは資本主義の分析の際に、労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒んだ。何故ならば、その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえないものだからである。すなわち、資本主義は、何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできないものなのである。したがって、マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析したのである。このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」、と述べている。吉本隆明は、『情況へ』で、「資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なこである。しかし、その資本主義は、人類の歴史の無意識〘自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然。それが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれその自然史的必然としての自然史的成果が、経済社会構成の拡大と高度化、科学および技術の進歩・発達、その知識の細分化と増大、生活の利便性の向上をもたらした〙の生んだ……最高の出来栄えの作品である。したがって、資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品である。したがってまた、資本主義には悪と欠陥があるから資本主義が産みだした文明や文化や商品も悪で欠陥があると資本主義を批判しその文化や文明を批判しても、その最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない。その根拠を揺るがし資本主義を超えるには、資本主義とその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚する以外にない。そのためには、世界普遍性としてある人類史の原型、母型、母胎であるアフリカ的段階〘縄文的段階、北米インディアン的段階、アボリジニ的段階〙における種々の贈与制を歴史的批判的に調査し解明してその再構成をしなければならない。すなわち、民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論を構成する点にある。それができれば、経済社会構成を資本主義に置く西欧近代を超え出て、次の段階に超出することができる、と述べている)、また「ヘーゲルの強力な痕跡を持っていた」近代主義的プロテスタント主義的神学者のシュライエルマッハー(『ヘーゲル』)は、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。また「シュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現〘人間の自己告白、自己表現〙となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間の意味的世界・物語世界としての「自分自身の歴史と現在の解釈を表現しようとする。すなわち、自己表現としての宣教を企てる」ところの「<存在者>レベルでの神への信仰」、また「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出した「人間学の後追い知識」としての人間学的神学者のブルトマンは、ハイデッガー自身から「『今日まさにこのマールブルク〘ブルトマン、ブルトマン学派〙では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる〘類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界としての〙存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〘「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〙神を見失うことではなかろうか』」と客観的ま正当性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に批判されたブルトマンにおける「<存在者>レベルでの神への信仰」(『ルドルフ・ブルトマン』、木田元『ハイデッガーの思想』)、近代の宗教的形態の一つである<科学主義>における「<存在者>レベルでの神への信仰」(吉本隆明は、『超20世紀論』および『共同幻想論』において、次のように述べている――「情報科学や情報技術の専門家たちは、人間の<感覚部分>に関わる心・精神というものと、人間の<非感覚的部分>に関わる心・精神というものとは、同じものであると信じて疑わない」が、木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその部分を抽象し全体化し、すなわちその部分を拡大鏡にかけて全体化して思惟し語ることが問題なのである。何故ならば、「情報科学や情報工学の発達は、確かに人間の<感覚部分>に関わる心・精神を発達させ知識を増大させたけれども、人間の情念、喜怒哀楽、人間の<非感覚的部分>に関わる心・精神を発達させることはできなかった。古代から人間の喜怒哀楽は変わらない」、「人間の<非感覚的部分>に関わる心・精神は豊かにならなかった」。人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分にすぎず、〘近代以降の宗教としての〙科学主義における科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある。社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達に対して、情念や非感覚的部分に関わる心・精神や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない」。「マルクスが、人類の歴史において、経済的範疇は第一次的に重要なものである、そしてその他のものはそれに影響されると述べた時、幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提で述べている」)――そのような「<存在者>レベルでの神への信仰」を承認することに対して、門戸を開いてしまったという点だけである〕」。
「その開かれた門戸の最も具象的な誰にとっても見て取ることの記念碑は、福音主義の領域で歌われた讃美歌を集めた<教会讃美歌集>である。まさに教会の讃美歌こそが、福音主義的礼拝の中で至極顕著な仕方で、〔「単一性と個別」、区別を包括した単一性において、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える」主である」ということからして、啓示の<客観的な>実在としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての〕啓示の<主観的な>実在の要素を代表している。言い換えれば、聖霊の中で啓示の受領者となる人間を代表している。すでにエペソ五・一九で、霊の歌をもってということが言われていることは、何を意味しているのであろうか、人間がそこで持っているのは一体どういう可能性であろうか。宗教改革の時代に目を向ける時、その答えは簡単である。ルターが一五二三年に聖歌を集めたものをドイツ語版で出版したいと望んでいたその目的について、ルターは、……〔聖書の中で証しされている啓示の<客観的な>実在としての、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神ノ言葉ガ歌ノ形で人々ノ間ニトドマルタメニと書いている。さらにそれよりももっと詳しく、一五二四年にいわゆる『ワルター版合唱讃美歌』の序文の中で、『……それによって〔聖書の中で証しされている啓示の<客観的な>実在としての、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の子あるいは神の言葉」としての〕神の言葉とキリスト教の教えがあらゆる仕方で促進され習練されるためである。それでわたしはまた……いくつかの霊的な歌を集めた。それは、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みに基づいて〕今や神の恵みによって再び明らかになった福音が広く一般の人々の間に伝わり、われわれも、ちょうどモーセが出エジプト一五章で彼の歌の中でなしているように、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神〘神の顕現、「<秘義>の啓示」〙にしてまことの人間〘神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〙――この〕キリストがわれわれの賛美であり歌であることを誇り、パウロがⅠコリント二章で語っているように、われらの主イエス・キリスト以外のものは何も歌ったり語ったりしないためである』、と述べている。したがって、ルターは、彼の歌を、四つの例外を除いて、自分の手で自由に創作しないで、〔教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準である「第二の形態の神の言葉」である〕聖書あるいは〔「第三の形態の神の言葉」である〕古代と中世の教会で歌われていたものを改作して造った。ルターにとっては、『自分独自のものではなく、〔<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」、啓示の<主観的な>実在としての〕教会とその信仰が大切で』あった。したがって、「決定的に大事なことは、……ルターの歌には叙情詩的な性格が全く欠けているということである。言い換えれば、ルターの讃美歌の中では、主観の動きを前面に出す強調が全てかけている。ルターの歌は、崇拝、内容的な伝達、信仰告白、罪の赦し、宣教である。したがって、われわれは、神の子供や神の教会が、それらの歌の中で、自分自身〔自己告白、自己表現〕と取り組んでいるのではなく、むしろ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神〘神の顕現、「<秘義>の啓示」〙にしてまことの人間〘神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――このイエス・キリストにおける神の自己啓示により明らかにされたところの、「自己自身である神」としてのキリストにあっての神としての〕神および〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における〕神のみ業の認識と賛美へと身を向けているのを見出す。まさにそのようにしてこそ、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、啓示の主観的な実在としての神の子供たちの生としての〕<主観的な>啓示の実在の生活、愛、経験、現実が語ってくる。それに対応することが、いずれにしてもその意図と基本的な態度に関する限り、一六世紀の大多数の教会讃美歌の作家についても言われなければならない」。
「すでに一六世紀から一七世紀にかけての世紀の移り行きと共に、それであるから学問的な正統主義がまだやっとその完成に向かいつつあった時に、教会讃美歌作家の領域においては、顕著な方向転換がはじまってくる」のであるが、「その際、〔<主観的な>〕信仰の〔「主要な言明、第一の主題」としての<客観的な>〕対象に身を向けている姿勢はそのまま持ち続けられているが、しかし、多くの場合そのような姿勢と共に、あの〔「自分自身と取り組む『主観的な』照明、霊の鼓舞、熱狂的感激」、「自己告白」、「自己表現」を目指す〕第一の主題に対してすでに数節にわたって対置された形で、あの対象との関係が意味しているすべての問題性〔すなわち、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張もという無神性・不信仰・真実の罪としての問題性〕を含みをもった〔「主要な言明、第一の主題に対して対置された形での第二の考察の中心」、すなわち「副次的な言明、副次的な中心」、すなわち聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の<主観的な>〕心、魂、われ、われらが姿を現わしてくる。そのような副次的な中心の形成は、一七世紀においては、正統主義的神学者とし試作することができた限り、宗教改革的な調べを感動的な仕方で表現したJoh.ヘルマン、Joh.リスト、Joh.フランク、Joh.J.シュルツ、ヨアキン・ネアンダー、……神学的にはパウル・ゲルハルトによってなされた。しかしながらまた、もう一つの別な調べが時間が経つにつれますますはっきりとしてきた。言い換えれば、人々の注意が、〔<主観的な>〕信じる人間主体の罪、彼が恵みを受けていること、彼の聖化、信じる主体がそのような経過に際して持つ〔主観的な〕感情の動き、心の状態、感動の深み〔の自己告白、自己表現〕へと向けられてゆくこと、……そのことに対する〔人間学的な〕宗教的考察と反省が繰り広げられてゆくことが、そこで起こってきた。その後、三位一体の神のみ業としての創造、和解、救済の活劇の代わりに、人は今や魂が独り言を言いながら自分自身と語っているのを聞く、あるいは対話をなしつつ、魂が神と、神が魂と、あるいは、ある一つの魂がほかの魂と語っているのを聞くという別なもう一つの活動が演じられるようになる〔「ヘーゲルの強力な痕跡を持った」近代主義的自由主義的プロテスタント主義的キリスト教的神学者のシュライエルマッハーのようなキリスト教を、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハは、次のように客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判している――先ず以て人間の内面の無限性、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を認識し自覚した近代的「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」から、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。〘何故ならば、〙理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である〘からである〙」、このような訳で「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、その時には神は聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではなく、類的機能を持った人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された(表現された)人間の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神」として、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」し、「(中略)神の啓示の内容は、〘聖書の中で証しされているキリストにあっての〙神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神〘類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界としての神、「存在者レベルでの神」〙から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」〕。人は、それらの人間に対して、いかに彼らが〔<主観的な>〕信仰の中で戦い、苦しんだか、いかに彼らが疑いまた慰めと励ましを受けたかを信じなければならないし、その時人は、<彼ら>に関して、〔<主観的な>〕彼らの<自己>告白〔、自己表現〕に関してそのことを信じなければならないのである」。言い換えれば、教会讃美歌集という「普遍性と組織性の後光」を得たところの、類的機能を持つ彼らの自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された(表現された)彼らの意味世界・物語世界を信じなければならないのである。因みに、バルトは、『教会―活ける主の活ける教団』「証人としてのキリスト者」で、「ステパノを証人としているのは、すなわちステパノの殉教の本質は、その苦難の行為〔やその自己告白、自己表現〕にはなく、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられた「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通した、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストについての〕言葉にある」と述べている。そのような自己告白〔、自己表現〕としての彼らの歌は〔すなわち、聖書の中で証しされているイエス・キリストだけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張もというところでの類的機能を持つその人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された(表現された)その人間の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神」に対する自己告白、自己表現としての彼らの歌は〕、同時代の別名アンゲルス・シレシウスと言う、保守主義者であるとともに神秘主義者であったJoh.シェフレルの歌と顕著な仕方で、実によく当然のことのように同じ響きを立てている。その時、人は、一体何を・誰のことを信じているのであろうか。まさにこの自己告白〔、自己表現〕こそが、さらに〔人類史における自由を認識し自覚し自由を原理として経済的基盤を資本主義に置いた西欧近代の段階の時代と現実における〕近代的なより快活な・より自分を意識している時代の輝きの中で一八世紀に移り行くとともに、ますます豊かな飽満な動きのあるものとなってゆく。その『ただ単に教えだけでなく、また生活を』という標語をもった敬虔主義が、神学の世界においていわゆる理性主義的正統主義の中ですでに勝利を収めていたが、間もなく詩作の流れは、『教えだけでなく、生活を』の方向に沿って合流し始めた〔因みに、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とすべき「第三の形態の神の言葉」に属する「教会の宣教をより危険なものにしてしまうのは、その教会の宣教が、福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考えるところにある」。したがって、バルトは、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』では、次のように述べている――「世界の救い〘その包括的な概念と同一である平和、革命の究極像は観念の共同性を本質とするあらゆる国家の無化を伴う社会的な、すなわち現実的な個体的自己としての全人間の究極的総体的永続的な解放にある〙を何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、〘<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における復活、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのものである(この「完成」は、復活されたキリストの再臨、終末を待たなければならない)〙私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」、「不毛な反抗や反論を避けて、西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まるべきである」、それ故に「平和の祈り」も戦争の元凶である人間的なあらゆる国家の無化を伴うところの主の祈りの「み国を来たらせ給え」という祈り以外の祈りはないと言うことができる。それ故にまた「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない。しかし、このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、〘戦争の元凶である民族国家が現存する限り、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、〙戦争の可能性はあけておかなければならない」と言わなければならない。『証人としてのキリスト者』によれば、「われわれは、心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒〘不信、非知、非キリスト者、「そのことをまだ知らぬすべての他の人々」〙に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない。すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである。したがって、われわれは、キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」〕。今やクリスティアン・F・リヒテル、Lud.A・コッテル、Ben.シュモルク、Joh.J・ラムバッハ、Phi・F・ヒルレル、E・ゴットリープ・ヴォルテルスドルフ、またそれなりに特別な仕方でNik・v・ツインツェンドルフのような人の讃美歌の中でわれわれに出会うところのものは、曲もまたこの時代に怪しげな感情的高まりを強めてくるのであるが、まさに〔「客観的な教義、特にキリスト教教義が言及される際の」<主観的な>〕膨らんだキリスト教的生活感情である。例えば〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――この啓示の<客観的な>実在における〕預言者、祭司、王という三つの任務を果たされるキリストの神人性は、そのことを告白することと宣教することから、今や〔「想像力豊かな空想を刺激する装飾術」を駆使した<主観的な>〕主体の情熱、感謝、畏敬、賛美する喜びの声〔「敬虔な詩」〕によって内容が満たされ担われるようになった。すなわち、〔Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下によれば、「啓示の<しるし>」の<しるし>としての「第三の形態の神の言葉」であるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会のことであるが、〕全体として見るならば、参与しながらそれらの歌を共に歌う〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会は、〔「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされている「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕キリストに相対して、〔自主性・自己主張、自己告白、自己表現を目指すという仕方で〕最高に<自動的>であり、最高に<自己>行動的であり、最高に<自己>高揚的である教会を前提しており、ただひたすら〔バルトに引き寄せて言えば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての〕信仰の中でのみみ言葉を聞くことによって動かされていたルターの教会ではない。(中略)それから、その世紀の高所に、二人の最後の偉大な讃美歌作家G・テルシュテーゲンとクリスチャン・フェーリヒテゴット・ゲレルトが立っている。彼らにおいては、なお依然として教会の歌の客観的な実体〔聖書の中で証しされている啓示の客観的な実在としてのイエス・キリスト〕はなくならず、ほとんど全くと言ってよいほど腐食されていないが故に、彼らの作家の手になる歌をまとめて、〔「最初の起源的な支配的な<しるし>」としての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」としての「第二の形態の神の言葉」である〕聖書的な――〔その聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「啓示の<しるし>」の<しるし>としての「第三の形態の神の言葉である」〕教会的なキリスト論のほとんど完全な便覧を造ることができるくらいである。しかし、彼らにおいても、どのようにあの副次的な中心〔「主要な言明、第一の主題に対して対置された形での第二の考察の中心」、すなわち「副次的な言明、副次的な中心」、すなわち聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間もというところでの、われわれ人間の<主観的な>心、魂、われ、われらが姿を現わしてくる副次的な中心〕が決定的に堅固になっていったかということ、昔から伝えられたキリスト論が気づかないうちに異国風の<外衣>になってしまったということ、テルシュテーゲンにおいては神秘主義的な現実体験を表現する記述の外衣に、ゲレルトにおいては強固な道徳的心情を表現する記述の外衣になってしまったということ、いずれにしても彼らが〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「啓示の<しるし>」の<しるし>としての「第三の形態の神の言葉」である〕教会に歌わせようとした〔聖書の中で証しされている〕本来的な実体が偶然的に付着している<異物>となってしまったかということに対して明瞭な訳ではない」。
「(中略)テルシュテーゲやゲレルトの中で成熟した新プロテスタント主義の教会讃美歌を念頭においてこそ、人は、そこで起こったことが実際に何であったかを明らかにしなければならない。したがって、そこで、人が、テルシュテーゲン〔神秘主義〕に味方してあるいはゲレルト〔道徳〕に味方して決定を下すことは根本的には意味のないことである。神秘主義と道徳主義は、互いに補充し合う対向物であるから、もしもそれらを都合の良い結論を引き出すために対立させたとしたら、それは全くの誤解による。テルシュテーゲンとゲレルトの中で到達された福音主義の教会讃美歌の発展の高所で、……まさに古典的なそれら二つの形姿の中で起こったことは、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――この〕キリストを言い表す告白は確かになおそこにあったが、しかしそのキリストを言い表す告白は、それらの詩人が本来教会に歌わせ讃美させたいと願ったこととの関連においては、結局その最も深い根底において余計なものとなってしまったということである。そのキリスト告白は、もはや一にしてすべてでなく〔すなわち、もはや聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における一にしてすべてでなく〕、むしろもとに戻せない仕方で、第二のものと並んでの第一のものとなってしまった〔因みに、バルトは、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出した」ルドルフ・ブルトマンに対して、根本的包括的に原理的に批判するという仕方で、『ルドルフ・ブルトマン』で、次のように述べている――「(中略)この新約聖書の使信が、まさに〘「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」として〙イエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、またこの使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり〘この出来事についての人間が、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たち」としての人間ではあれ、人間による証言であることも確かであるかぎり〙、〘聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」に属する〙われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。〘しかし、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」として第一次的な〙(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この〘「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の〙証言から取り去って――その結果、〘「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を付与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である〙この証言を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの〘すなわち、「人間学の後追い知識」としての前期ハイデッガーの哲学原理に基づく「絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理」〙に従事することにおいてのみ真であり、重要であるものに形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめることにならざるをえない……〘したがって、ハイデッガー自身が、客観的な正当性と妥当性を以て根本的包括的に原理的に、ブルトマンの神学の方法は、類的機能を持つブルトマン自身の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された(表現された)ブルトマン自身の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神への信仰」となってしまい、結局のところ聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神を見失うことになってしまう」から、「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」と批判し「揶揄」している〙」〕。テルシュテーゲンおよびゲレルト後の時代においては、福音主義教会は、事実〔「神のその都度の自由な神的決断」による<客観的な>「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を前提することなく、人間的な〕純粋に主観的な教会讃美歌を手に入れようとしていた。すなわち、一六世紀および一七世紀び讃美歌を、ルターやパウル・ゲルハルトを含めて、ほとんど全く讃美歌集から除き去ってしまうかあるいはほとんど全く改作してしまったので、人々がただ語り・聞きたいと願ったことだけを語るに過ぎなくなってしまった。したがって、人が〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事中で主観的側面」としての<主観的な>「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の中での、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕聖霊として知っていると考えていたものが、今やイエス・キリストに相対して独立的となってしまったからには、その聖霊は、キリストの霊以外の霊であり、それは神秘主義と道徳の霊であるかもしれないが、もはや古代および宗教改革の教会がまさにみ言葉を聞き信じたところの霊ではないものとなってしまった」。
「最後に、われわれは、特に近代的な教会賛美歌(例えば、ノヴァーリス、E・M・アーント、A・クナップ、P・シュピッタ )に向かうならば、そこで、単に敬虔主義と合理主義が合流しそれだけ強力な一つの流れになった事実に出会うだけでなく、また一八世紀の急進的な傾向がそのまま完遂されずに、むしろ抑圧されてしまって、特に礼拝生活に結びついて昔から伝わった伝統の重みが、新しく歴史の価値と尊厳さに目覚めた感覚と合体して、教会讃美歌の客観的な内容〔啓示の客観的な実在、イエス・キリスト〕が見たところ新しく力を奮うようになるように配慮したという事実を見出す。しかし、そのことは、実際には、〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による客観的なその「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての主観的な「イエス・キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられたその人間の側の〕主観的な要素独自の重みがますます増大しつつ起こるのである。まさに一九世紀になって、いよいよもって教会讃美歌の中で表現されているキリスト教的心情の宗教的誠実さと道徳的真面目さは、それに照らして教会讃美歌がはかられるところの心音となり標準となった。今こそはじめて、一八世紀におけるのとは全く別な自己理解をもって教会の告白は、自分自身に対する告白〔、自己表現〕となる。今や人は、一八世紀においてはとても考えられなかったような仕方で、主観的なものを詩的な形で客観的なものに投射して客観的なもの自体を主観的なものへと解釈し曲げることを学んだ〔この「キリスト教的心……キリスト教会におけるキリスト」は、聖書の中で証しされている神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間(神の「第二の存在の仕方」における「神の子あるいは神の言葉の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)イエス・キリストではなく、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでのキリスト」である〕。人は、今や再び古プロテスタント的教会讃美歌を近代的教会讃美歌と並べて評価し・理解し・有用性を見てとり・新しく名誉を与えた。『福音主義的教会讃美歌』〔「福音主義教会は、もともとその発端においては、『霊的な歌』ということで、讃美歌は、説教や聖礼典におけるのと同じように、まさに教会の応答として、〘教会の「主要な主題」としての聖書の中で証しされている神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは〙神の言葉が宣べ伝えられ、聞かれるところの歌として理解した、それから人間が、その言葉に関してなす経験の中に、興味深い副次的な主題を見出した、そこで〘木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその一面だけを拡大鏡にかけて全体化し、〙主要な主題と比べてもっと興味深い主題として、その副次的主題を独立した主題とした」〕という思想に基づいて、人は、ルター、改革派の詩篇、パウル・ゲルハルト、後期バロックの詩人たち、テルシュテーゲンとゲルハルト、浪漫主義者と観念論者、啓蒙主義の詩人たち、一九世紀の調停神学の詩人たちとを平和のうちに共存させた。その時、例えばルターの〔聖書の中で証しされている客観的なイエス・キリストの「啓示の出来事」の中で明らかにされたキリストにあっての神としての〕『神はわがやぐら、わが強き盾』が一気に同じ意味で、E・A・アーントの『われは、〔木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその一面だけを拡大鏡にかけて全体化したところの、主観的な〕わが信じる方を知る』と一緒に歌われる時、それは、まさに<ルター>の讃美歌であることをやめてしまわなければならない。この時、事実、近代的―宗教的自己告白〔、自己表現〕の摩擦音の中で、宗教改革的な神賛美は、消失してしまうのである。一九世紀において教会賛美の客観的な内容をむしろ主観的に解釈し利用する術を知るようになったということが、プロテスタント主義の道がその内的発展の本来的な道として考察されるべき限り、宗教改革からの<堕落>の道を歩んでいた。教会讃美歌の歴史は、われわれに、そこで歩みがなされてきた<内的>世俗化の道を示している。まさにその領域においては、外的世俗化についてはほとんど気づかれないのである。われわれの教会讃美歌集のどの部分においても、多かれ少なかれはっきりと示されるところの<隠れた>異端が存在している。それは、第三条の異端〔われわれに対して、「一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるが故にそのように告白することを要求する」、また「われわれ人間の中にも、中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、また「われわれ人間の理性や力〘感性力、悟性力、意志力、想像力等〙ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、また「われわれ人間の究極的限界性を告白することを要求するところの、聖霊の働きの本質的なもの、直接性」に対する異端、「聖霊は、人間精神と同一ではない。人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、聖霊によって更新された人間の理性性〘<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」〙も聖霊と同一ではないところの聖霊に対する異端、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「イエス・キリストに霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える聖霊に対する異端〕――すなわち、その中で、聖霊はイエス・キリストの霊以外の別な霊となってしまい、名目上はなお依然として神の霊、いやキリスト教的霊であるが、実際は、人間的な誠実さと真面目さの霊、神秘主義と道徳の霊でしかなく、そこで人間は、〔イエス・キリストにおける〕神の啓示の中で実現された神との交わりをまだ依然としてあるいはもはや持っていないで、すべての人間的な真面目さやすべての敬虔性にも拘らず人間が自分一人で、自分自身とだけおり、この世の中で希望もなく神もない者(エペソ二・一二)である、そういう第三条の異端である」。「この隠れた異端は、結局また、ほかの領域においても明らかになってこざるを得なかった。近代主義的新プロテスタント主義の外的な世俗化は、すべてその教会讃美歌の変遷の中で明らかとなった内的世俗化の徴候でしかないのである〔そのことに対して対象的になって距離を取り得ない時に、すなわちそのことに対して認識し自覚して距離を取り得ない時にそのようになる根拠は、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』によれば、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」からである。そこにおいては、絶えず繰り返し、そのことに対して自覚的に対象的になって距離を取ることしない限り、あるいはそのことに対して自覚的に対象的になって距離を取ることができない限り、人は、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して様々な人間自身の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神」を、「存在者レベルでの神の啓示」を、「存在者レベルでの神への信仰」を生み出すし、生み出し続けるのである〕」。
文責:豊田忠義
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