1の1.カールバルト教会教義学 神の言葉 神の啓示> 聖霊の注ぎ 十六節 神のための人間の自由 一 聖霊啓示の主観的実在についてその4

なお、引用個所の〔〕書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である 

 

(二)

 聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)、詳しく言えば客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエスキリストの啓示の出来事客観的な>「存在的な必然性>」<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事主観的な認識的な必然性>」を前提条件とするところの、客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在)の関係と構造秩序性コリントⅠ310-11エフェソ214以下>その中での<主観的な>「認識的なラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性霊は、人間精神と同一ではない」、それ故に「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」⦅『教義学要綱』⦆、それ故にまた「聖霊によって更新された人間の理性性」も聖霊と同一ではない⦅『バルトとの対話』⦆)という枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」>その中での「主観的側面」としての<主観的「認識的な<必然性>」を前提条件として(簡潔に言えば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断による啓示と信仰の出来事に基づいて)言葉を与える主は同時に信仰を与える主であるということからしてその枠組みの中での客観的な存在的なラチオ性>」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態の関係と構造秩序性コリントⅠ310-11エフェソ214以下)における啓示との間接的同一性>」、啓示との区別を包括した同一性において客観的に存在しているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」(「最初の直接的な第一の啓示のしるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」(「啓示のしるし>」しるし>)である教会の単一性は神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠された神である」まことの神にしてまことの人間一人のキリストに基づいている」。したがって聖書の中で証しされているキリストの福音が聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」「教えの純粋さを問う<教会的な>教義学の問題」、「<福音主義的な>な教義学」の問題<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会的な>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う特別的な神学的倫理学」の問題、それ故に一般的な倫理学の問題ではない、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人びとが聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、このことこそ「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」を通して(『福音と律法』)純粋ニ教エラレ聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという「神との共働」「神人協力」、「神人協働」を目指という仕方で〕礼拝改革とかキリスト教教育とか教会と国家観念の共同性を本質とする「家の統一性の法的枠組みその法的中枢として憲法があるとして機能している政治的権力」(ミシェル・フーコー『全体的なものと個的なもの政治的理性批判に向けて』)。「権力は実体ではなく、個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ――すなわちある価値基準ある時ある場所において、聖なるものと俗なるもの、教えるものと教えられるもの、正常なものと異常なもの、支配されるものと支配するもの等へと関係を規定する政治的合理性の形態である」と考えたフーコーは、「市民の生活と西欧の歴史の全体を覆っていて、現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題」は、「家の統一性の法的枠組みとして機能している政治的権力」と「すべての諸個人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割とする『牧人的』「司牧的」「牧会的」と呼ぶことのできる権力」この牧人システム司牧システム牧会システムの在り方は、社会的には教育制度医療制度監獄制度等として適用され、政治的には福祉政策として適用された」の無化にあると考えた(司牧・牧会は、神父や牧師による「私的な諸個人の魂への心遣い・配慮のこと」である。この「Seele・魂」は、E・トゥルナイゼンの『牧会学Ⅱ』によれば、「人間の肉体と魂全体」を意味しており、それ故に司牧・牧会は、「私的な諸個人の全人格への心遣い・配慮を意味する」ことになる。その「心遣い・配慮」は、現実的な市民社会においてそれぞれ異なった資質、職業、身体、感情、生活、思想、意志、構想、行動をゆうする「私的な諸個人を対象としてなされる」。「牧会Die Seelsorge は個人に向けられている。牧会は個人を追う」。と同時に、牧者は、司牧・牧会における「公説教において、羊の群れ全体の運命にも配慮する」)および〔現実的な〕社会との関係とか国際間の教会的な相互理解というような領域で何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考えるならば教会の宣教をより危険なものにしてしまう」、「また「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教の規準・原理・法廷・審判者・支配者・標準「第二の形態の神の言葉」である聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは哲学、道徳、観念の共同性を本質とする政治家の統一性の法的枠組み憲法が法的中枢に位置しているとして機能している政治的権力」〕に置くならば特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合うところに置くならば、ある社会機構、あるいは経済機構の保持廃止に貢献するところに置くならば、教会の宣教をより危険なものにしてしまう」(『教会教義学 神の言葉)。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での啓示の主観的な実在すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの啓示出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、啓示の主観的実在としての神の子供たちの生の中での神の啓示は神によって与えられた啓示の客観的な実在の特定のしるしから成り立っているということである啓示の客観的な実在の特定のしるし例えば、洗礼と聖餐という聖礼典、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)ということでもって啓示がわれわれの自然と歴史の世界でもあるところの世界の内部で起こる特定の出来事関係秩序のことが理解されなければならないイエス・キリストの時間時間の主の時間は、問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間――すなわち、すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和としての、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」(キリストの「勝利の福音」)であり、ここに「まことの現在この「まことの現在」に包括されたまことの過去とまことの未来が存在するし、神の言葉がある。そのイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる神に向かって自由である神のための人間の自由の源泉である信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて自らの思惟と語りと行動における原理規準法廷審判者支配者標準としてそれぞれの時代、それぞれの世紀において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」それ故に、木を見て森を見ないという仕方での形而上学的な部分を全体化する一方通行的な一般的な倫理学の問題における「隣人愛」ではないし、また「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」における「隣人愛」ではないところの、『福音と律法』および『ローマ書新解』によれば主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」「イエス・キリスト<>信ずる信仰」による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就、律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在」としてある成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和そのものである「イエスキリストを律法の目標とする隣人愛」、すなわち聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命」、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人びとが聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連環と循環においてイエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指すところの神に向かって自由である神のための人間の自由という人間の行為の可能性があるというの主張前回の論稿〕に対して次に、<第二の主張が立てられなければならない

 

<第二の主張>

 イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、「啓示の主観的実在としての神の子供たちの生――この啓示の主観的な実在の中での神の啓示は自分たちの存在をもはや自分自身から理解することはできず、ただ啓示の客観的実在からしてのみ理解することができるそれであるからもはや啓示の客観的な実在ないしに理解するのではなく換言すれば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「特別啓示」、「啓示の真理」、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「啓示神学」からしてのみ理解することができるのであるから、「一般的な啓示」、「一般的な真理」、「存在の類比」、「『自然』神学」から理解するのではなくただ啓示の客観的な実在との関係の中でのみ理解することができるということを神ご自身によって確信せしめられた何故ならば、その確信は、イエス・キリストにおける神の「自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明の能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」からやって来るものだからである人間の現実存在から成り立っているこの時、われわれは、初めて、例えば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死〔律法、神の裁き、死〕および復活〔福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それ故に神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」ということを自己認識・自己理解・自己規定、告白することができる(『教会教義学 神の言葉』)、「自分がつまり生来的な自然的な『自分の理性や力感性力、悟性力、意志力、想像力、身体的な自然を内面の原理とする禅的修行によっては』全く信じることができない」ということを自己認識・自己理解・自己規定、告白することができる(『福音主義神学入門』)、聖書の中で証しされている<客観的な>「存在的な<必然性>」としての<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリスト「啓示の出来事」は、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを指し示していることからして、そのイエス・キリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、「神の選び神のみ、生をイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄をイエス・キリストの十字架神の裁き、死において認識することができる」、それ故にそのような仕方で「われわれが本当聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世を認識することができる」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、その「復活」に包括された「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方である」ということからして、われわれ人間は、そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない」から、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである。すなわちわれわれの召命・義認・聖化は、われわれ人間的な契機を通して、生来的な自然的なわれわれ人間の力〘感性力、悟性力、理性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする身体的な禅的修行等〙や「神人協力」、「神人協働」、「神人共働」を通してわれわれ自身の中に生起するのではなく、イエス・キリストの御業として、われわれのために、われわれ自身の中に生起する」(『カール・バルト著作集3「神の恵みの選び」)。したがって、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、「われわれは、心を頑固にし福音神の恵みを認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない。すなわち、われわれちがそうした人々に呼びかけることができるのは、われわれがその人をその中に聖書の中で証しされているキリストの「勝利の福音」の中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に聖書の中で証しされているキリストの「勝利の福音」の中に置いてい給うことによってである。したがって、われわれは、キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」、と述べている」。

 

 われわれはここである思惟上の飛躍をなしたことになる」。何故ならばわれわれは、これまで客観的な実在としての「啓示、イエス・キリストが人間のところに届く際の媒介となる神的な<しるし>を与えることについて語ってきた」のであるが、「ここにきて急に、自分たちがみ子の兄弟であり、神の言葉の聞き手であり、行為者である事実を神によってすでに確信せしめられて<いる>人間、そのようにして神から与えられた確信を通してその事実をすでに見出<した>人間について語ろうとしており、明らかにその中間にある決定的なこと、すなわち一人の人間が神的なしるしが与えられた後それをほかならぬ啓示のしるしとして受け取りそのしるしの中でそのしるしと共に啓示そのものを受け取り取り上げるということにまでどのように来るのかというそこに至る経過については一言も触れられていない、「事実そのことに関して何も述べておらずそれ故にそこで飛躍したことになるからである言い換えれば、包括的に言えば、「思惟上の<飛躍>」を生じさせるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>については一言も触れられていないからである。しかし、「そのような飛躍こそそこで起こるべき積極的なこととして起こらなければならないことである」。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、「啓示の主観的な実在としての神の子供たちの生――この啓示の主観的な実在の中での神の啓示は神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」・「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕聖霊の位格と業である言い換えればそれは自己自身である神としての三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」における神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」・「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――として神自身の位格と業である何故ならば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」からである」。「われわれが、神自身の人格と業について一言も語らず沈黙してしまうことは、聖書の中で証しされている証言を拒否し、結局は神の啓示を拒否することを意味する……。われわれが神の啓示を否定せず承認するならばその承認はそこでは聖書の中で証しされている「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)におけるまさに神自身の人格と業が問題であるが故にただ前提としてのその神の啓示神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)事実から出発することから成り立ち得るだけであってそのことについて……はっきりと分かっていなければならないイエス・キリストにおける神の自己啓示>は、自己自身である神」(ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質)、すなわ神の「起源的な第一の存在の仕方であるイエスキリストの父――「啓示者」・言葉の語り手創造者神の「第二の存在の仕方である子としてのイエスキリスト自身――「啓示」・語り手の言葉起源的な第一の形態の神の言葉和解者神の「第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊」(「父ト子ヨリ出ズル御霊」)――聖霊自身の業である啓示されてあること」・「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)である神の第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識と信仰を要求する啓示である。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求する」。ここで啓示の承認は聖書の中で証しされている啓示の事実から出発する。啓示が、聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、実際に出発して世の領域の中へと、そのただ中で啓示が生起し、神のペルソナが登場し、神の業が出来事として起こる世の領域そのもの自身は、神の人格でもなければ神の業でもないところの世の領域の中へと入っていくことができるということから成り立ち得るだけである」バルトは、神のペルソナについて、次のように述べている――「われわれは、神の人格性という概念を取り上げる時、……人が神の三位一体に関する教説の中ででも最近に至るまで(大多数の人たちによって!)神の人格(Personen複数形)について語ってきたことから生じる不明瞭さを意識しなければならない」――すなわち、「神の人格(Personen複数形)という概念から生じる三つの神的我、三つの対象、三神という概念像を喚起させる「不明瞭さを意識しなければならない」。したがって、「われわれは、三位一体論と取り組んだ際、三位一体の事柄を言い表す」時、この『人格(Personen複数形)』という概念」――すなわち「三つの神的我という概念を用いることをやめることに賛成する立場をとった」。何故ならば、この「『人格(Personen複数形)』という概念は、古典的な神学全体においては、人が今日『人格(Person)』という概念(「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念)によって理解するのを常としているような方向では決して理解されたり解釈されたりすることはなかったからである「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である「キリスト教会は、神の中に三つの人格、三つの神的我が、それ故に三重のわれ、三重の主体、三神論、三重の対象の意味で三つの人格性が存在しているということを決して教えたことはなかった」からである。聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」において、「ご自身の中で父・子・聖霊であることによって「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神」であることによって、ただ一人の方であり、また常に、われわれは、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を父・子・聖霊として認識することによって、神を「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)においてわれわれを愛する方として、われわれに出会い、われわれに対して、汝と呼びかけ、働きかけ給う一人の方として、認識するのである」。われわれが、人格性として言い表すことのできるは、自己自身である神」としての神ご自身の中およびわれわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方におけるその業の中での父聖霊の共存の中での三位一体性全体の中においてであって、決して個々の存在様式それ自体の中においてではない。三重ではなく、三度、三位相互<内在性>の中で、一人の三位一体の神が、人格性であり給う」。したがって、「神の三つの顔があるのではなく、一つの神の顔が、神の三つの意志ではなく、ただ一つの神の意志が、神の三つの義があるのではなく、ただ一つの神の義が、神の三つの言葉と業があるのではなく、ただ一つの神の言葉と業があるのである。徹頭徹尾、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神」としての一人の神が、われわれに対して、〘「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」である〙イエス・キリストの中で啓示されているのであり、徹頭徹尾、同じ一人の神が、ご自身の中でも神であり給う聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の自己啓示そのものはそれが神の人格および業と同一である限り人間的記述の対象とはなり得ないここでの事情はキリスト論におけるのと同様であるキリスト論はただ聖書の中で証しされている<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)における「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエスキリストの事実から出発してゆく出発であり得るだけであるそれはそのイエスキリストの事実という前提の下にクリスマスの秘義聖書の中で証されている「啓示の<秘義>」としての「クリスマスの<秘義>」は、「神の恵みの実現の<秘義>」、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義のことである。そして、この聖書の中で証しされている「啓示の秘義」(クリスマスの秘義>」)は、その「<しるし――すなわち、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>」(「第一の条項」)イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>」(「第二の条項」)という「クリスマスのクリスマスの奇蹟を通して語って来て聞かれるの前に畏れかしこんで身を屈しつつあの歴史的現存性のその時代と現実に強いられた世界の領域におけるその特定の場所と時間の中で起こったことこと神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の」言葉が肉、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」となったという現実の事実について述べてゆくためであるしかしその際それが「神のその都度の自由な恵みの神的決断」によるものである限り、われわれはどのようにそのことが起こったのかどうして世界のただ中での特定のそこで啓示が客観的に実在となったのかについて決定的なことは何も述べることができないのであるそれと同じように<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて啓示の客観的な実在が主観的な実在となる聖霊の注ぎに関してもその出来事の事実性はそれとして神の人格の業の理解できない説明できない秘義として尊重されなければならないのであるこの秘義の尊重は言葉を変えて言えば「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)、われわれも「第三の形態の神の言葉」である教会宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」としての神学の思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の模範に従って啓示の秘義から出発するということなのであるこのことは、<第一に>、われわれがその<客観的な>啓示の秘義その<客観的な>啓示の中での主観的な側面においても前提として実際に力を奮わしめることまた第二にわれわれが啓示の秘義前提として力を奮わしめることでもって満足しそのどうしてどのようにしてに接近してゆことする向こう見ずで破壊的な試みをしないということを意味する」。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>ということからして、それぞれの時代、それぞれの世紀において、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>(『ローマ書』)の下で「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられるという出来事は、客観的な啓示が実際に人間的に人間のところまで来ることができるという仕方で繰り返される神的なしるし「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」(<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」)、「キリスト教に固有な」類と歴史性を与えるという手段を通して起こるがその際言うまでもなく神ご自身がこの手段を用いしたがって客観的な啓示があれらのしるしを通して事実人間に示されるという前提はあくまで秘義として残るというふうに答えることができるしまたそう答えなければならないということである」。このような訳で、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して人間が客観的な啓示を実際に見るということは神の自由な恵みのみがなし得ることとして神の自由な恵みに対して留保されたままであり続けるわれわれは徹頭徹尾全面的にただの人間として、聖書の中で証しされているまさにその神の自由な恵みが支配するその支配の仕方の内部にまで入って洞察することができない限りそこでも決定的なことを語ることはできなかったのであり啓示の客観的な側面についてのあの「神の側の真実」としてある啓示の側から規定されてくる〕一つの思惟上の飛躍をしなければならない必然性の前に立ったのであるそれと同様にどのように客観的な啓示が人間の中に入ってくるのかというその主観的側面についての問いに対しても……概念の厳密な意味で啓示の主観的な実在を神の人格と業を自由な恵みの出来事をちょうど神が神的なしるしを与えるということから見てまだ自分の前に持っているのと同様に旧約聖書に向けるのと同様に、<自分の背後にしている新約聖書に向ける人間を指し示すことでもって答えることができるだけである」。「啓示の承認はわれわれが聖書の中で証しされている客観的な啓示の前提のもとで視線の向きをまさに「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリストを証ししているその「啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である旧約聖書および新約聖書に向けるということしたがってその中で啓示が神ガヨシトシ給ウナラバ人間に出会うであろう人間的な形態へとしたがってしるしを与えることの現実存在へと〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」<>そのような神への愛を根拠とする神の賛美としての隣人愛」(全世界としての教会自身と世のすべての人びとが聖書の中で証しされているキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、このことこそ「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す現実存在へとさらにまた啓示が神ガヨシトシ給ウナラバ人間の中にすでにはいっところの人間的な形態したがって神によってしるしを与えるという手段を通してすでに確信せしめられている人間自分がイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、啓示の主観的な実在としての神の子供であることをすでに見出し人間の現実存在に向けるということであるわれわれがまさにそこで事実その間にある飛躍をそれとしてそのぎりぎりの帰結にまで力を奮わしめる時その飛躍について完全に沈黙する時〔一つの思惟上の飛躍をしなければならない必然性は啓示の側から規定されてくるそれであるからその飛躍を逆説的な架橋としてわれわれの認識体系の中に編み入れてしまわない時まさに「第二の形態の神の言葉」である聖書聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教――すなわち、説教と聖礼典を指し示す指示の彼岸においてと神の善意によって自分たちが神の子供であることを見出すことが許される人間を指し示す指示の此岸においては完全に武装を捨てて降服する時まさにそのことでもってわれわれは例えば人がそのような者として危急の時にとにかく学び実行に移し他の者に教えたりすすめたりすることができる死ニ向カッテノ飛躍では決してないということを言っているのであるそこではただあの飛躍われわれにとっては前代未聞の全く不可能なイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に規定されたあの飛躍はイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて神から人間に向かってすでになされておりあの真中のところで啓示がすでに実在であるということが問題となり得るだけであるこの飛躍は聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の宣教における一つの「教会的な補助的奉仕」である神学的な非合理主義ではなく聖書の中で証しされている<客観的な>啓示の中での神のよく理解された合理性を念頭において起こっていることである」。

 

 そこのところではただ最高ノ沈黙だけが何の基礎づけもなしに語られなければならないことを積極的に語ることができるということが明らかとなったとすればわれわれは啓示の主観的な実在に関するあの第二の主張をなすことができる」。「啓示の主観的な実在に関する第二の主張先にも述べたが次のようなものである――エス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、「啓示の主観的な実在としての神の子供たちの生――この啓示の主観的な実在の中での神の啓示は自分たちの存在をもはや自分自身から理解することはできず、ただ啓示の客観的な実在からしてのみ理解することができるそれであるからもはや啓示の客観的な実在ないしに理解するのではなく換言すれば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「特別啓示」、「啓示の真理」、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「啓示神学」からしてのみ理解することができるのであるから、「一般的啓示」、「一般的真理」、「存在の類比」、「『自然』神学」から理解するのではなくただ啓示の客観的な実在との関係の中でのみ理解することができるということを神ご自身によって確信せしめられた何故ならば、イエス・キリストにおける神の「自己啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているのであるから人間の現実存在から成り立っている」。

 

 「われわれは先ず第一に啓示の<客観的な>実在の中での「主観的側面」としての啓示の主観的な実在は特定の人間の現実存在から成り立っているということを語ったこの言い方でもって、『人間からしてということが意味されていることはあり得ずそのような言い方でもってただ<客観的な>実在としての啓示の中での神的行為の人間に向かってが意味されていることができるだけであるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>「その啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が意味されていることができるだけであるそのことを前提条件としたところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を起源とする神の言葉の三形態(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下が意味されていることができるだけである〕」。それであるからここで人間の現実存在が姿を表わすということは人間に対してあるいはそれらの特定の人間イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>「その啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えた人間、神の子供たちに対して神の独立的な相手役としての役割や啓示の業に共にあずかる同労者「協働者」・「共働者」としての役割が帰せられるべきであるということを意味することはできない」。このような訳で、「新しく暗闇に覆われているままの自分たちの存在を超えて聖書の中で証しされている啓示に基づいてキリストにあっての神としての神からして自分たちの現実存在の中で啓示の主観的な実在であるところの人間神の子供たちが存在する。彼らが今や、彼らの現実存在の中で、「啓示の<しるし>」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の成員としてただ単に「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての「起源的な第一の形態の神の言葉」である啓示を持っているだけでなく、啓示の<受領者>として、啓示の主観的な実在の中で、それであるから「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリストとは決して混同されるべくもない仕方で、しかしまたイエス・キリストからでない仕方でそのような者であることも決してなく、自分自身「啓示の<しるし>」の<しるし>として啓示で<ある>といった具合に、啓示と関りをもたらしめるところのものは、全くただイエス・キリストにおける「啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>持っている啓示の神的な人間に向かってでありそのことはまた神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉が人間性、「肉」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」を取り上げた際に言葉が取った神的な卑下である「神の隠蔽」としての「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように、神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである。神の恵み(「神的な賜物……の総内容」すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体のとしての神ご自身が、神の側の真実として自分自身を賜物とすることによって、自分自身、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる他者との交わりの中に赴き、自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り、ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくことである」から、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉の受肉神と人間がイエスキリストにあって一つであることである(『ローマ書』によれば、「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」)。バルトは、「人の子」語句について次のように述べいる―「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)はあなたは生ける神の子キリストですと答えた。メシヤの名に対する『人の子』というイエスの自己称号は、覆いをとるのではなくて覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい。逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい。受肉神が人間となる僕の姿自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽覆い隠しを意味している」。<客観的な>実在としての啓示は確かにただ単にイエスキリストであるばかりでなくそれが人間に向かってであることによってイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」(換言すれば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、先ず以て「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての「起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身次にその「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、「啓示との<間接的>同一性」において存在している「その最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」としての「第二の形態の神の言葉である聖書それからその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉である教会の宣教(「その最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」の<しるし>)、すなわち聖霊自身の業である啓示されていること」、「聖礼典的な実在としての神の言葉の三形態の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)ということからして啓示は、『イエスキリストにあってまたそれらの人間の現実存在でもあるもしも啓示がまことの啓示であるならばもしも啓示がそれの目標に――すなわち人間に到達するとするならばもしもイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の空間的広がりと時間的累積において啓示の啓示されてあることがあるとするならばその時には啓示は人間の存在の中で啓示されていなければならない啓示は人間の存在として啓示されていなければならないちょうどそれぞれの時代、それぞれの世紀において、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエスキリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」である聖書、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義としての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)が現存しているように」。そこでそれらの人間が啓示の中に含み入れられるということは啓示の客観的な実在がすなわちイエスキリストがまさに彼らのためにこそそこにあるということについてイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みに基づいて神ご自身によって確信せしめられるということであるここですべてのことは人がそのように確信せしめられるということについて実質的に神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における神的なしるしを与える業以外のことをそれであるから「第二の形態の神の言葉」である聖書の中での預言者および使徒の言葉の業以外のことを聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教、説教と聖礼典の業以外のことを考えないということによってもってかかっている「その<しるし>を与えることの中で、「第二の形態の神の言葉」である聖書、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教、説教と聖礼典という対向者の中で、いわばそのまま立ち続けているような客観的な啓示それ自体、すなわち人間の中に入ってゆかないような啓示は、そのほかの偶像と同じ一つの偶像でしかない。そのような偶像ではない聖書の中で証しされている現実の<客観的な>実在としての啓示は人間自身の中で主観的になる言い換えれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死〔律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるところの客観的な啓示であるということを自分で造り出すことはできないこのことはわれわれ自身にとって徹底的に理解を絶した出来事としてイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して理解されることができるだけであるわれわれ人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである」。したがって、例えばわれわれは、何かある一つの道徳的あるいは宗教的な企てを通して、われわれ自身を首尾よく啓示に近づけて行くことができるから、啓示はまた主観的にも実在であるという道徳的あるいは宗教的な企ての目標のところに立っているのではない。聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神がすなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の神としての神がわれわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――このイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるという仕方で際にわれわれのためにそこにい給う時にはわれわれもまた神のためにそこにいるのでありその時にはあの理解を絶した出来事はわれわれが神の啓示の出来事の中へと共に取り入れられるということそれも決して神と協働する者、神との共働者としてではなくただ受け取る者としてまた神と並んでではなくイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で神を通して神の中でとにかく実際に取り入れられたということ以外の何ものも意味していないその時われわれ自身の存在はわれわれにとって神的な存在としてではなく全くただの人間的存在として神によって恵みの中に取り上げられ受け取られた存在としてイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>認識的な<必然性>」(換言すれば、「啓示と信仰の出来事」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた、啓示の主観的な実在としての神の子供たちの存在として明らかになるこの人間が客観的な啓示の出来事の中へと取り入れられることが聖霊の業あるいは啓示の主観的な実在である」。

 

 「われわれはそのことを個々の点にわたってさらにもう少し細かに解明する」。<客観的な>実在としての現実の啓示は人間自身の中で主観的になる言い換えれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるところの客観的な啓示であるという理解を絶した出来事を、「人間が神によって確信せしめられる出来事であると呼んだ。事実そこで起こることにおいては確信させられるということ換言すれば客観的な啓示の真理が人間の目と耳の前で人間の心の中で開示されること覆いを取られてあらわにされることが問題であるここではたとえ人間が<客観的な>実在としての啓示の真理の中にいなくても<客観的な>実在としての啓示の真理は<客観的な>実在としての啓示の真理であるということからして「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において神がイエスキリストにあってわれわれと共にい給うということイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた、啓示の主観的な実在としてのわれわれは神の子供であるということは神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」においてわれわれの性質をおとりになったイエスキリストが神の永遠のみ子であることが確かである限り何故ならば、このみ子は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「が、子として自分を自分から区別した子」であるからである永遠からしてまことであるということからしてそれ故に、「このことは、それが、まことであるとしてわれわれを照らし出す以前の時間、世の中でも、すでにいつもまことである」イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた人間自身が客観的な啓示を真理として認識し〔・信仰ししたがって自分にとってもまことであり力を奮うとして受け取るということ<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された」人間の理性性としての人間の理性が客観的な啓示を聞き取り人間自身が全く<客観的な>実在としての啓示の真理の中にあること換言すれば自分自身を徹頭徹尾<客観的な>実在としての啓示の真理からして理解するということが重要な問題である」。この時には、われわれは、例えば次のような自己認識・自己理解・自己規定、告白を得ることになる――すなわち、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない(『教会教義学 神の言葉』)、自分がつまり生来的な自然的な『自分の理性や力感性力、悟性力、意志力、想像力等によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」、「神の選びをイエス・キリストの復活福音、神の恵み、生において認識し、神の放棄をイエス・キリストの十字架律法、神の裁き、死において認識することができる」、「われわれが本当聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世を認識することができるわれわれ人間は、そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない」から、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである」、われわれの召命・義認・聖化は、われわれ人間的な契機を通して、生来的な自然的なわれわれ人間の力や「神人協働」・「神人共働」・「神人協力」を通してわれわれ自身の中に生起するのではなく、イエス・キリストの御業として、われわれのために、われわれ自身の中に生起する」(『カール・バルト著作集3「神の恵みの選び」という自己認識・自己理解・自己規定、告白を得ることになる聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神はキリストにおいて世をご自分と和解させ給うた>』(Ⅱコリント五・一九)。「キリストの十字架の死」(律法、神の裁き、死)は、「キリストの復活」(福音、神の恵み、生)、「実在の成就された時間」、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」へと向かうそれとして、すべてが終わった>』・『成し遂げられた』(ヨハネ一九・三〇)。客観的な実在としての啓示の真理のこの完了形に何も新しく付け加わってくる必要はないのでありこの「成就と執行、永遠的実在」としてある成就され完了された究極的包括的総体的永遠的な和解、救済、平和に対して、さらに何か人間的なものが新しく付け加わってくる必要はないのでありまた何も新しく付け加わってくることはできないこの「成就と執行、永遠的実在」としてある成就され完了された究極的包括的総体的永遠的な和解、救済、平和に対して、さらに何か人間的なものが新しく付け加わってくることはできない」。「この客観的な実在としての啓示の真理の完了形の中にまた客観的な実在としての啓示の真理がわれわれのためにそこにあるということも含まれている「単一性と区別」、区別を包括した単一性においてまたわれわれも客観的な啓示の真理のためにそこにいる。ちょうど「単一性と区別」、区別を包括した単一性において客観的な実在としての啓示の真理がわれわれに対して開かれているのと同じように主観的なわれわれの目心が客観的な実在としての啓示の真理に向かって開かれている」。このように、「客観的な啓示」と「主観的な啓示」は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、その全体性において理解されなければならない。したがって、主観的な啓示は客観的な啓示にさらに第二の啓示が付け加わってくるということから成り立っているのではない何故ならば、主観的な啓示は、イエス・キリストにおける「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面」としての<主観的な>復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としてのそれだからである」。「本当に正しい一つの「教会的な補助的奉仕」としての教義学は客観的な啓示を、<主観的なものへの突入の中で「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時のわれわれの時間、世」は、「非本来的な失われた時、世」として、<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」における「実在の成就された時間であるイエス・キリストの啓示の出来事から『攻撃』された時間、世「否定された時間、世「否定的判決の時間、世であるということからしてその救いとなる客観的な攻撃の中で客観的な啓示として記述するものである。したがって、神からして人間に向かうその徹頭徹尾単一的な動きの中で客観的な啓示を追い求めて行くのとは違う、正しくない教義学を、正しくはない倫理学、人生論あるいは牧会的配慮を対置させるとするならば、そのことは、ただ一つの誤謬に対して別な誤謬を持ってきて戦うことを意味するだけであるそういう誤謬を犯す彼らは、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で、詳しく言えば<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な「認識的な<必然性>」>)を前提条件とするところの(簡潔に言えば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づくところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された」人間の理性性というその全体性の中で思惟し語っていないのである。すなわち、彼らは、木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその一面だけを抽象し固定化し全体化して思惟し語っているのである」。

 

 「主観的な啓示は唯一の補充されることができない凌駕されることもない真理であるところの客観的な実在としての啓示<客観的な>「存在的な<必然性>」イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて人間のところに届き「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」において人間によって認識され承認されるということである――このことこそまさに聖霊の業である。すなわちわれわれに対して客観的に語られている聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神はキリストにあってこの世をご自分と和解されたということを繰り返し語ることができるだけである聖霊の業であるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」としての<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」、換言すれば聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)は、聖霊自身の業であるわれわれが目を開かれた盲人として認識しほめたたえ感謝し身を投げ出しつつアーメンまことにその通りですと承認するということが聖霊の業である」。この神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である聖霊は神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」である父と神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である子の霊でありすなわち、聖霊は、「神的愛に基づく父と子の交わり」としての霊、「父ト子ヨリ出ズル御霊」である。詳しく言えば、三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、三度目に、父と子の二つの存在の仕方から生じる一つの存在の仕方神の「第三の存在の仕方」である。しかし、この聖霊の存在の仕方は「啓示者」、「言葉の語り手」としての父と「啓示」、「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)としての子の啓示に対する特別な第二の啓示ではない聖霊は父なる神と子なる神の愛の霊であるここに聖霊の起源があるこの聖霊において「啓示者」、「言葉の語り手」としての父と「啓示」、「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)としての子は神的愛に基づく完全な共存的な交わりにおいてあるすなわち聖霊はその交わりの中で父は子の父言葉の語り手であり子は父の子語り手の言葉であるところの行為、性質・働き・業・行動あるここに神は愛愛は神であることの根拠がある愛は神にとって最高の法則であり最後的な実在である愛は自由がそうであったように自身においてのみ実在であり真理である」、そういう父と子の霊でありそれであるから神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉と並んでの霊ではなく神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉を聞かしめる言葉そのものの霊復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である、<客観的な>実在としての啓示である「キリストの霊」である「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、「第二の形態の神の言葉」である聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにするキリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。この「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに><いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。このような訳イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での主観的な啓示はただ客観的な啓示がわれわれの中で繰り返され刻印され保証されるということでのみあり得るあるいはわれわれから見た場合にはわれわれ自身によって客観的な啓示が発見され承認され肯定されるということを意味することができるだけであるそれであるからたとえただ一瞬たりとも「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされている客観的な啓示を宣べ伝える「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教から自分を切り離してしまおうとする倫理学人生論牧会的配慮は直ちにそもそも「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)である啓示との原則的な断絶を意味するし意味しなければならないわれわれは聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理そのものの中で啓示の真理の中にあるわれわれの存在を尋ね求めなければならない世界の中において啓示の客観的な実在としてのイエスキリストの中でイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」としての<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」(「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な「認識的な<必然性>」>)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられたわれわれは神の子供であるのであり神の子供として認識する>。そのようにして、神ご自身によって確信せしめられた人間の新しい現実存在に対しては原則的に自分たちはキリストを通してキリストにあるということ以外のことを知らないし知ることはできないし知ろうと欲しないところの人間であるという定義以外の内容的な定義を与えることはできないこのようにわれわれは神を通して神にあるということの意味を解明しなければならない「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「『キリストにあるということは、<キリストにあって神と和解せしめられたそれであるから、<キリストにあって永遠からして選ばれ、<キリストにあって召され、<キリストにあって義とされ聖化されたわれわれの罪はキリスト>の中で墓に葬られ、われわれの死は<キリスト>の甦りの中で克服され、われわれの生命はキリストと共に神の中に隠されわれわれのためにわれわれの身にわれわれを通して起こらなければならないすべてのことは、<キリストの中ですでに起こったということすでに決着がつけられ秩序づけられ、<キリストにあって恵みを通しちょうどキリストが生まれながら父の子であり給うようにわれわれは父の家で子供であるということである聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として神の子供世つぎ神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる。和解者が神の子であるが故に……和解、啓示の受領者たちは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、神の子供であるこのような訳で、「イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)実在、神の子供たちの生としての啓示の主観的な実在はそのままでそれとしてキリスト教的主題となることはできない>。何故ならば「単一性と区別」、区別を包括した単一性において啓示の主観的な実在はその客観的な実在の中に含まれているからである。われわれはすべてのわれわれの心配をキリストに委ねなければならない、『何故ならば、彼はあなたを顧みていて下さるのであるから』(Ⅰペテロ五・七)――われわれがこのこと以外のことを語ろうとするならばわれわれが語ることは聖書の中で証しされている<客観的な>実在としての神の啓示についての語りであることをやめてしまう……。何故ならばわれわれはキリストを通して>、まさにキリストの中にあるところのもの以外のものになることは決してないであろうからであるまたわれわれをイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」としての<総体的構造>の枠組みの中での啓示の実在の中へと含み入れ取り上げる聖霊は何故ならば、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられるものであるからである換言すればわれわれがなすことができないことをなすことによってすなわちわれわれの目心を開くことによってわれわれを啓示の実在の中へと含み入れ取り上げる聖霊はわれわれに対して確かにわれわれはキリストを通してキリストにあるということ以外の何ごとも語るべくもっていないのであるしたがってまさにわれわれは神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストとしての神の子の兄弟であり神の言葉の聞き手であり行為者でありそれであるからわれわれを繰り返しそのところからだけ理解するようにと招かれ要求されているということをわれわれに向かって語らしめなければならないのであって原則的にはそれ以外の何ごとも語らしめてはならないのであるわれわれがわれわれに向かってそのことを語らしめる時われわれは神によって確信せしめられた人間であり神の啓示はわれわれもまた啓示のためにその場にあり啓示に対して自由であり「神の啓示が人間に関わってくる」が故に、「神に向かって自由である神のための人間の自由いやわれわれ自身が「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、啓示である(われわれ自身の中で神の啓示されてあること)すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」としての<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」、換言すれば聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示の<しるし>」)、その聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教の現存キリストと共に神の中に隠された神の子供たちの生イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していく教会(すべての成員)の実在神の子供たちの生、「恵みの中での存在が生起する限りわれわれ自身が「啓示の<しるし>」の<しるし>として啓示であるといった仕方でわれわれのためにそこにあるのであるこの意味で神によって確信せしめられた人間が教会の実在の主観的な側面を形づくっている」。

 

 イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた神によって確信せしめられた人間が「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の実在の主観的な側面を形づくっているという主張を裏づける「第二の形態の神の言葉」である聖書的な背景「第三の形態の神の言葉」である教会的な関連事項を提示するに当たってはそれが少しでも完全であろうと望むときにはカルヴァンがドノヨウニキリストノ恵ミヲ受ケルカについて述べたキリスト教綱要第三編第1章の前置きとした基礎づけでもって満足しなければならない。キリストニツイテ述ベラレタコトガワレワレノ益トナルコトについての認識が、換言すれば聖書の中で証しされているまことの神にしてまことの人間であるキリストについてわれわれに宣べ伝えられたことがわれわれのもとに届き>、われわれを助けわれわれのものとなるという認識がそこでは問題であるそのことはイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による御霊ノ隠レタ働キニヨッテ起こるすなわち秘義の中で遂行される御霊の働き・業・行為・行動を通して起こるのである」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の永遠なる神がそのみ子に生命をたまわったのは、み子の私用ノタメデハナク、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは神の言葉によってムシロ助ケナク窮乏ノウチニアル者ヲ富マセルタメである。言い換えれば、永遠からして、われわれの貧しさと窮乏を満たす富となるという定めと志向の中でのことである「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、復活に包括された「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方である」。「われわれ人間は、そのままでは恵みを受け取る状態にはなし、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである。すなわち、われわれの召命義認聖化は、われわれ人間の感性力、悟性力、理性力、意志力、想像力等、あるいは神人協力、神人協働、神人共働によりわれわれ自身の中に生起するのではなく、徹頭徹尾、神の側の真実としてあるイエス・キリストの御業として、われわれのために、われわれ自身の中に生起するのである(『カール・バルト著作集3「神の恵みの選び」それであるから、イエス・キリストの恵みをわれわれが受け取ることについて語られるべきすでに最初の言葉は、富マセルこと、換言すればわれわれ自身が意味している空虚な場所が、イエス・キリストを通して満たされることが問題であるということでなければならない。したがって、イエス・キリストがワレワレノ外ニ立ち、われわれがイエス・キリストから離レテ立つ限り、それ故にイエス・キリストがあそこにいまし、われわれがここにおり、あの益トナルコトが現実のこととならない限り、この世にキリストが現臨シ給ウコトの中で神の意志は実行されず、キリストの現臨はわれわれにとって意味である、無益デアリ、何ヒトツノ意義ヲモ持タナイ。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を全世界としての教会自身と世のすべての人々が<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すという仕方で、イエスキリストの中で出来事として起こった恵みに分カチアズカラセルコトすなわち恵みの伝達はイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるという仕方で、彼がただ単にそこにいますだけでなくここにもいますということ彼がわれわれの仲間となりわれわれのの中に住み給うことを必要としている。言い換えれば、イエス・キリストが、エペソ四・一五によれば『われわれのかしら』であり、ローマ八・二九によれば『多くの兄弟のうちの長子』であり、またわれわれの側としては、ローマ一一・一七によれば枝が木に接木されるように『彼のうちにつがれた』と言われ、ガラテヤ三・二七によれば人が着物を着るように『彼を着る』と言われている。こういう意味で、<われわれの中に>住み給うことを必要としているしたがって、われわれの中に住み給うこと」は、「一般的な啓示」、「一般的な真理」、「存在の類比」、「『自然』神学」に立脚した思惟と語りにおける、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もって生来的な自然的なわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)というところのそれではない、また「純然たる造られた存在するものそのものその純然たる造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ生来的な自然的な被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」(『教会教義学 神の言葉』)というところのそれではない恵みの伝達とはキリストご自身の伝達のことであるそれであるから恵みの伝達はイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)ということことからしてキリストとわれわれがもはや二つではなく「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、むしろ一つであることわれわれが彼ト一体トナルということから成り立っているこのことはイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での福音を信ずる信仰の中で起こることであるもしもそのことが実際に起こるとするならばその時にはそれはまさに御霊の活動のあの秘義隠サレタ御霊ノ効力である「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「その受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」中での主観的側面」としての<主観的な>復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる御霊の隠れた働きを通してキリストとその恵みを享受スルコトへとキリストとその恵みにあずかることへと来るのであるそのような訳でキリストが、『水と血によって来給い』、われわれと連帯責任的となりわれわれのために死に給うたのはⅠヨハネ五・六、なおヨハネ一九・三四参照、昔の教会がこれらの聖句を洗礼および聖餐に結びつけた時、彼らは確かに間違っていなかった)、<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的な>復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」、「キリストの霊」、御霊が彼について証しをするためであるエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにするキリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。神のその都度の自由な恵みの神的決断」によるこの聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれることである言い換えれば父と子の永遠の霊であり何故ならば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様な三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「神的愛に基づく父と子の交わり」――すなわち、神的愛に基づく「起源的な第一の存在の仕方であるイエスキリストの父――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――<>「第二の存在の仕方である子としてのイエスキリスト自身――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――の交わりとしての「第三の存在の仕方である聖霊、父と子と共に、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするところの、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」だからであるそれ故にその方がイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」を前提条件としてわれわれの心の中でなし給う証しはキリストの中で水と血の中でわれわれに与えられた父と子の恵みの対となるものであり洗礼と聖餐、聖霊自身の業である「啓示されていること」(<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」)――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」、啓示との区別を包括した同一性においてある「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書、聖書を自らの思惟と語りと行動の原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教の現存、このしるしであるその同じ御霊が彼について証しするためであるこの証しが人間に与えられることによってこの証しが、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」贈り与えられることによってその人間は正当な仕方で恵みにあずかるようになるのであり恵みは彼自身のものとなるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、「キリストによってすべての人間のために提供された犠牲以外の何ものでもなく、それであるからまさにキリストご自身以外の何ものでもないところの恵みは、その人間自身のものとなる」。そのような人たちが、Ⅱペテロ一・二によれば神によって選ばれた者である。すなわち、御霊ノキヨメにあずかっている人たち、さらに言い換えるならば、キリストにあって下された彼らについての神の決断がその人たちにとって有効となるので、従順トキリストノ血ノソソギの中に移し入れられる。すなわち、信仰の従順と復活福音、神の恵み、生に包括されたキリストの死律法、神の裁き、死の中で完成された罪の赦しの状態の中に入れられる人たちである。それらの人たちは、ただあの御霊ニヨル聖ナル御血ノ隠レタソソギの中に、御霊のあの証しの中に、したがって御霊が証ししているキリストの中に、彼らにとって実在を持つ状態の中で存在している」。このような訳で、「人はその状態についてⅠコリント六一一と共に同様に神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)――における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての主イエスキリストのの中にまたその<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」、換言すれば神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事(<主観的な>「認識的な<必然性>」)――におけるわたしたちの神の霊の中に基礎づけと力を持っていると言わなければならない以上を要約すれば聖霊はあの平和のきずな』(エペソ四・三)、それを通してキリストがわれわれをご自身と結びつけご自身と一つとされた平和のきずなであるそれはちょうど聖霊がその中で以前から高きところで父と子が結び合わされている平和ノキズナであり給うのと同様である神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての「聖霊は、父なる神と子なる神の愛の霊である。ここに、聖霊の起源がある。この聖霊において、父と子は、神的愛に基づく完全な共存的な交わりの中にある。すなわち、聖霊は、その交わりの中で、父は子の父言葉の語り手であり、子は父の子語り手の言葉であるところの行為性質・働き・業・行動である。ここに、神は愛愛は神であることの根拠がある。愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在である」。愛は、自由がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」」。

 

 そのような訳で、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示されてあること」・「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」としての聖霊自身の業である「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における御霊の業はイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる、詳しく言えば<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<客観的な>「存在的な<必然性>」この「啓示の出来事中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」聖霊の注ぎによる「信仰の出来事」<主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるそれとして、まさに神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエスキリストの業以外の業ではない天上ノ生の種としてすべての今と此処を超えて指し示しつつ「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、信者たちの中に現臨される霊を通してここで、聖霊は、人間精神と同一ではない人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『教義学要綱』)、それ故に「聖霊によって更新された」人間の理性性も聖霊と同一ではない(『バルトとの対話』)キリストは彼らを世から分かち彼らの永遠の嗣業に望みを置く希望へと彼らを集めイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下に基づいてご自分の教会をつくり給う<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での<主観的な>「認識的な<必然性>」としての、啓示の<主観的な>実在としての霊を通して<客観的な>「存在的な<必然性>」としての、<客観的な>啓示の実在としてのキリストは「第二の形態の神の言葉」である預言者を啓示の生徒と教師を召し給う啓示の主観的な実在としての霊を通して人は死の体の中にありながら甦りに向かって進む「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに><いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということであるそれであるからイエスキリストから出てイエスキリストと一つにする(彼らが彼ト一ツデアルタメニ一つとする)イエスキリストの霊として御霊は生カス霊として被造物の中に自然の一部としての人間は、人間の歴史的行為として、その身体(肉体)その身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然との相互規定的な対象的活動を行うそしてその普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動によって対象化された非有機的身体(人間化された自然)としての人間的自然は、それが感覚的客体としては孤立しているのであるが、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられていることからして、それは協働関係としての社会を構成するし、その人間の類の時間累積としての「歴史とは個々の世代個体的自己の成果の世代的総和の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力および一対の性・一対の男女(その共同性としての家族)ならびに言語を利用〘媒介、反復〙する」マルクス『経済学・哲学草稿』、マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)ということからして、人間の類、人類は、人間の類の時間累積、すなわち自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果の時間累積持つが(そして、そこから観念諸形態が生み出され、それ自体の自己増殖と自己展開を持つが)、その場としての自然と歴史の中にその限りまた不敬虔なものの中にも生きている霊というものからご自分を区別する「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ということからして、それ故に「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「教会的な補助的奉仕」としての神学における思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度「祈り」の態度に対し聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神が応じて下さる神のその都度の自由な恵みの神的決断による祈り聞き届けということに基づいて成立している(『教会教義学 神の言葉』)ということからして、われわれの恣意性や独断性において「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない。説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののことである『説教の本質と実際』)御霊はまさにキリストの御霊であるが故に神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――におけるキリストの業は「キリストの霊」である御霊なしには御霊を通してしか決して起こらないのであり聖霊の交わりⅡコリント一三・一三)の中でしかわれわれの主イエスキリストの恵みではないし神の愛は聖霊を通してしか「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「聖霊の注ぎ」を通してしかわれわれの心の中に注がれる(ローマ五・五)ことがないのである

 

 「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」、啓示との区別を包括した同一性においてある「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)、すなわち「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「聖書は御霊について多種多様な言い方で語っている聖書は御霊のことを、子トスル霊と呼んでいる(ローマ八・一五、ガラテヤ四・六)。それは、御霊が、われわれによっても父として呼びかけられることを欲し給う方の(神のひとり子の中でわれわれに示された)いつくしみをわれわれに証ししている限りにおいてそうなのである。聖書は御霊のことを、コノ世ニアッテ遍歴スルモノ、死者ニヒトシイモノであるわれわれに対して、繰り返し生命と信頼を与える希望の<しるし>または担保と呼んでいる(Ⅱコリント一・二二)。聖書は御霊のことを、不毛の地をうるおす(イザヤ四四・三、五五・一)、あるいは渇いた人の渇きをとどめる(ヨハネ七・三七)、あるいは汚れを洗い清める(エゼキエル三六・二五)水と呼んでいる。聖書は聖霊のことを、強め、生命の力に回復する油(Ⅰヨハネ二・二〇以下)、あるいは焼き尽くす、しかし善き業をなす火(ルカ三・一六)と呼んでいる。それらはすべては、ワレワレハモハヤワレワレ自身ニヨッテ働カズ、御霊ノ働キト感動トニヨッテ治メラレルヨウニナルノデアリ、モシモワレワレノウチニ何ラカノ善キモノガアッタトスレバ、ソレハ、御霊ノ恵ミノ実ニホカナラナイワケデ、モシモ御霊ガナイナラバ、ワレワレノ持ツスグレタ点ハ精神ノ暗愚ト心ノ邪曲デシカナク、そういう生命を御霊がわれわれに伝達するという意味でのことである。われわれがキリストについて語る時には御霊から生ずるこの生命のことを考えているのである「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、ただあの結合の中でだけ、ただあのエペソ五・三〇で奥義として記された婚姻の中でだけ、したがってただわれわれは彼の肉の肉であり彼の霊の霊であってコウシテカレト一体トナリ頭としての彼についている肢体であるということの中でだけすなわち<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」に関わる聖霊を通してだけ――何故ならばタダ御霊ニヨッテノミカレハワレワレト一体ニナリ給ウのであるから――、キリストは救い主としてわれわれのところに来たり給う方である『福音と律法』によれば、「福音の勝利、恩寵の勝利とは、われわれ人間の<真実の罪に対する神の勝利であり、律法を悪用する罪に対する神の勝利であり、不信仰の罪に対する神の勝利である。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれ人間に対して、赦罪や和解や平和や救済について、われわれ人間から生ずる現実は何もない」、ということを自己認識・自己理解・自己規定させ、告白させるその中で、「不信仰の罪に対する神の勝利とは、イエス・キリスト自身が、イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるために、われわれに力と愛と慎の霊を与え給う出来事である。<力の霊>とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。<愛の霊>とは、イエス・キリストの御意に従わしめる霊律法の完成であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。<慎みの霊>とは、われわれが神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、われわれが聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を救い主として見神に聞くよう促す霊であるこの<力の霊><愛の霊><慎みの霊>における「キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、神の要求と強請神の命であり、恩寵への召喚のことである恩寵が告知され証しされ宣教れる時、わたしはわたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものだ、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法神の命令・要求・要請が建てられる。何故ならば、この律法がなければ、われわれは、現実的にキリストの福音を所有することができないからである。この意味で律法は本来的には生命に導くべきもの神の恩寵を証しするものという事実において福音を内容とする福音の形式である。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)神の命令、律法は、木を見て森を見ないという仕方で形而上学的にその一面だけを抽象し全体化して、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である「神の第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――)であるイエス・キリストを道徳的倫理的模範として模倣することを意味しない。「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)における「キリストの福音を内容とする福音の形式としての神の律法(神の人間に対する要求)は、福音の中核であるイエス・キリストが、律法を満たしすべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならないから、それは、「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわち、全世界としての教会自身と世のすべての人びとが聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにある。したがって、<力の霊>、<愛の霊>、<慎みの霊>は、「神の要求・要請・命令、律法を、人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて、人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』をつくり上げる霊ではない、また人間によって恣意的独断的に曲解された十誡預言者の言葉ソロモンの処世上の知恵山上の垂訓また使徒の報告に過ぎないもの」を「律法の目標」とする霊ではない、イエス・キリストを律法の目標としない」ところの「人間的な余りに人間的な自然法や抽象的理性や民族法という形に転倒された」ものを「律法の目標」とする霊ではないしかしながらそれを通して聖霊が決定的に包括的に「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、われわれがキリストと一つであることを導入れるところのわれわれの中で働くこの神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である聖霊の業は信仰であるすなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる、詳しく言えば<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての信仰であるその聖霊の業としての信仰はわれわれが聖霊の中に聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理についての一人の内ナル教師われわれ自身の中にわれわれが一人の主なる神をのみ主として持つ自由をわれわれに与えるが故に、そのように告白することを要求する」ところの、また「われわれ人間の中にも中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」ところの、また生来的な自然的な「われわれ人間の理性や力感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする身体的な禅的修行等によってはイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」ところの教師を与えられるようになることである言い換えれば、ソノモノノ働キニヨッテ、救イノ約束ガワレワレノ精神ノウチニ浸透スルガ、ソレニヨラズシテハ、ソノ約束ハ単ニ空ヲ打ウツカ、アルイハワレワレノ耳ヲ打ツダケデ終ワッテシマウ、そういう真理の教師を与えられるようになることである。約束がイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて外からわれわれに出会う言葉がまた言葉の中でキリストご自身が単にわれわれの方にわれわれのところに近づいてくるというだけでなく神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」贈り与えられることを通してわれわれのもとにとどまりしたがってわれわれのものとなりわれわれは彼のものとなるということをわれわれはヨハネ三二四によれば一三も参照)、キリストがわれわれに与え給うた聖霊を通して知るのであるもしも神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――であるキリストが<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事<客観的な>「存在的な<必然性>」中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊」、換言すれば神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「聖礼典的実在」としての「神の言葉の三形態の関係と構造秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である御霊を通してご自分をわれわれの内ナル教師となし給わないならばわれわれの目を自ら彼に向かって開きわれわれ自身を神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――であるところの、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての父によって神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――であるところの、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した子」としてのご自分に与えられたもの(ヨハネ六・四四)としてご自分のもとに引き寄せ給わないならばほかのすべての教師がわれわれに関してどんなに骨折ってみてもそれは無駄であり光が盲人に与えられることは空しいのであるただ神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――であるキリストだけが全キ救イであるしかし「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」――すなわち、「実在の成就された時間」としての「まことの現在」に包括された「まことの未来」としての「復活されたキリストの再臨」、「終末」、救済の「完成」を待望する終末論的信仰において、まさにキリストの中で完成された救いにわれわれをしてあずからせるために彼自ら<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」聖霊神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「聖礼典的実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である聖霊でもってわれわれに洗礼を施さなければならない言い換えればキリスト自らがイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいてわれわれに福音を信じるようにと光を与えなければならない、キリスト自らがわれわれを新しい被造物神の宮としなければならないのであるすなわち、<客観的な>その「受難と死律法、神の裁き、死および復活福音、神の恵み、生の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事(<客観的な>「存在的な<必然性>」)中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である「キリストの霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えなければならないその時には、われわれの思惟と語りは、『福音と律法』に引き寄せていえば、次のようになる――聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は神なき者がその状態から立ち返って生きるためにただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか……承認するであろうか……誰がこのような答えに屈服するであろうかわれわれのうち誰一人としてそのようなことはしない! 神の恩寵はここですでに恩寵に対するわれわれの憎悪に出会うしかるにこの救いの答えをわれわれに代わって答えそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、『福音と律法』によればそのこと自身が「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」であるのであるが、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、神人協力「神人協働」も「神人共働」もということを目指すところの、生来的な自然的なわれわれ人間の自主性と無神性を放棄し人間は喪われたものであると告白し己に逆らって神を正しとしかくして神の恩寵を受け入れるということを「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」として、〕肉となり給うことによって肉において服従を確証し給うことによってまたこの服従において刑罰を受けかくて〔復活福音、神の恵み、生に包括された律法、神の裁き、死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業であるこれこそイエスキリストがその地上における全生涯にわたってことにその最後に当たって我々のためになし給うたことであるわれわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に信じ給うたのである(ローマ三二二ガラテヤ二一六等のイエスキリスト信仰すなわち、『イエス・キリスト信仰』属格明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格〔イエスキリスト信ずる信仰〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容であるこのことからして「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<「属格」信じる信仰によって、生きているのである。これを言葉通り理解すれば私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなくすなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格として理解された信仰⦅すなわち、イエスキリスト信じる信仰によって生きるのではなく――この「目的格的属格」として理解された先ず以て人間的な契機を媒介させる理解の仕方は、人間ルターの翻訳既存の聖書訳の<絶対化>、<無謬性化>である。その還相的観点を持たないところの、律法と福音を二元論的に分離し対立させ、「先ずは罪人を怖れさせ 、その罪を暴露して 、痛悔し且つ回心させるためには 、誡めを説教すべきである。しかしそれだけではいけないので、その次に他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきである。かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る。さらばキリストを信じなさい。あなたが信じるならこれを得られるし 、信じないなら得られない」というルターの『キリスト者の自由』における還相的観点を持たないところの一方通行的なただ往相的観点だけからする先ず以て<人間的な契機>を媒介させる理解の仕方は、それ故に徹頭徹尾ただ<神の側の真実>にのみ根拠づけることをしない理解の仕方は、この不信の時代と現実および「無神性」の時代と現実ならびに「真実の罪」の時代と現実を生きる、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の問題を包括することができない理解の仕方である。まさにこの先ず以て人間的な契機を媒介させる理解の仕方には、近代へと向かう時代と現実が加担しているし、近代以降の<人間中心主義>を主調音とする時代と現実が要請していたと言うことができる。何故ならば、宗教改革者の人間ルターも、われわれと同じようにあの歴史的現存性のその時代と現実に強いられて生き思惟し行動していたからである神の子信じ給うことに由って生きるのだということである(ガラテヤ二・一九以下)すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格主格的属格として理解された信仰⦅すなわち、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたイエスキリスト信ずる信仰に由って生きるのだということである――この徹頭徹尾神の側の真実>にのみ根拠づけられた理解の仕方は、自然時空に死語化してしまうことのない<時代を超えて生きる言葉として、「キリスト復活」から「復活されたキリストの再臨」、「終末」、「完成」までの聖霊の時代、中間時におけるそれぞれの時代、それぞれの世紀の中で、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の問題を包括することができる理解の仕方である、根本的包括的に原理的に全世界としての教会自身と世のすべての人々に、すなわち内在的な外在的な不信、無神、真実の罪、非知に「完全に開かれた」理解の仕方であるこのような訳で、「(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは現実ではない……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」。このことが「『福音と律法現実性における勝利の福音の内容である人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある何故ならば、それは、次のような理由による――徹頭徹尾<神の側の真実>において「成就と執行、永遠的実在としてあるイエス・キリストにおける個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的永遠的な<救済>概念は、『平和に関するバルトの書簡』によれば、「<平和>の概念と同一であり」、「この世の神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解である。神ご自身によって、イエス・キリストの歴史Geschichteにおいて、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されているような和解である。したがって、われわれ人間によって初めて完成されねばならないような和解ではなく、神ご自身によって確立された神の側の真実としてある和解であるイエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的であり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである。イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった神の側の真実としてある現実性である。この贈り物はただ、われわれがこれを受けとることを待っている」にも拘らず、全世界としての教会自身と世がわれわれ、なお依然として、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きていることこそが悲惨なのである」。したがって、確かにわれわれは、「平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言せねばならないが、それらのことは存する世界が、経済の世界性と戦争の元凶である一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な国軍(軍隊組織を動員できる民族国家の一国性を単位として動いている限り、そしてそれが拒否権を有する5大国中心の国連安保理の当事者であれ、平和運動をする活動家であれ、さまざまな宗教の宗教家であれ、東大の教授であれ、ハーバード大の教授であれ、優秀な国際政治学者であれ、彼らが、この世界に現存する様々なな国家形態の<国家を前提>として思惟し語り行動している限り、究極的に何の助けをももたらさないことは明白である平和の実現はあり得ないことは明白である。したがって、世界が必要としている革命的認識は、世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界であることに感謝をもって信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないところにある」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。また、人間的領域の問題に引き寄せて言えば、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の救済と平和の実現の問題は、トータルな世界認識の方法の問題を、また身心相関論(身体論)の問題を、また観念の出自とその自体性の問題を、また個体性の哲学の問題を、またコミュニケーション論の問題を、また個―対(一対の男女、その対の共同性としての家族)―共同性という人間存在の総体性を生きる人間存在の問題を、また個―対(一対の男女、その対の共同性としての家族)―共同性の関係と構造の問題を、観念の共同性を本質とする戦争の元凶である民族国家を無化する問題を、また(われわれは「主の祈り」において「み国が来ますように」と祈っているのであるが、そして「復活されたキリストの再臨」、「終末」、「完成」においては、すべての国家は完全に無化されるのであるが、)革命の究極的な問題としての観念の共同性を本質とするすべての法的政治的な国家の無化を伴う、法的政治的な、すなわち観念的な解放は、部分的な解放に過ぎないから社会的な、すなわち現実的な個体的自己としての全人間の究極的包括的全体的永続的な解放の問題を、明確に提起するところにあるにも拘らず、誰もそのことをなし得ていないからである。因みにミシェル・フーコーは、それが極右や極左を含めて保守主義的なあるいは進歩主義的な、組織集団であれ、政治活動家であれ、政治学者であれ、宗教家であれ、メディア的知識人であれ、誰であれ、彼らによって宗教化され教条主義化され「倫理化されたイデオロギー」は、その啓蒙において他者に対して他律的な二者択一の倫理(善悪の判断)、「賛成か反対かを強いるが、それは<啓蒙の〝恐喝〞>」に過ぎないということからして、そうしたそれらすべてから対象的なって距離を取ることによって、すなわちそうした「単純で権威的で他律性を強いる二者択一の形式で提出されるようなすべて」を、自らのその存在・その思考・その実践において拒否することによって、新たな主体や自由や価値の構成をしようとした(M・フーコー『思考集成X』「啓蒙とは何か」)。いずれにしても、「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)闇のこの世以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に人間の人間的存在がイエスキリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。

文責:豊田忠義