1の1.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ 十六節 神のための人間の自由 一 聖霊、啓示の主観的実在』について(その3)
【なお、引用箇所の〔〕および〘〙書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である。青字はバルトからの引用である。黒字の中での「」は引用箇所である】
(一)
「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、換言すれば聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)からして、詳しく言えば「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの(すなわち、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、コリントⅠ3・10-11、エフェソ2・14以下――それ故に、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」⦅「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」⦆としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である「教会の単一性は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」としての「起源的な第一の形態の神の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕一人のキリストに基づいている」、それ故に聖書の中で証しされている「キリストの福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ならば、「教会の宣教をより危険なものにしてしまう」)<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」ということからして、「われわれの第一の主張は、啓示の主観的な実在〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、啓示の主観的実在としての神の子供たちの生〕の中での神の啓示は、神によって与えられた啓示の客観的な実在の特定の<しるし>から成り立っているということである。啓示の客観的な実在の特定の<しるし>〔洗礼と聖餐という聖礼典だけでなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)等〕ということでもって、啓示が、われわれの自然と歴史の世界でもあるところの世界の内部で起こる特定の出来事、関係、秩序のことが理解されなければならない〔「イエス・キリストの時間、時間の主の時間は、問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間〘<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>としての、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」〙、ここに「まことの現在、〘この「まことの現在」に包括された〙まことの過去とまことの未来が存在するし、神の言葉がある」のであるが、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「神に向かって自由である神のための人間の自由」の源泉である「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、それ故に「われわれ人間の、思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなもの一切」に基づかないで、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、それ故に一般的な倫理学の問題における「隣人愛」ではないし、また「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」における「隣人愛」ではない、すなわち『福音と律法』および『ローマ書新解』によれば主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」⦅「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」⦆による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就と律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在」として成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和そのものである「イエス・キリストを律法の目標とする隣人愛」、すなわち聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命」、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人びとが聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところの「神に向かって自由である神のための人間の自由」という「人間の行為」の可能性がある〕。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての「神の啓示が人間に関わってくること、それであるから<神に向かって自由である神のための人間の自由>も、われわれが聖書の中ですでに与えられている答えを堅く取って離すまいとするならば、人間からして説明することはできない。ここで説明しなければならないことは、どのように信仰および服従のような何かが存在するか、換言すれば聖書の意味で、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての〕神を信じ、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で〕神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>における神の業と贈り物はどのようであるのかということである。われわれがいま『啓示の主観的実在』について語る時、『主観的実在』という概念は、以上述べた意味で、以上述べた特殊性の中で用いられていることが理解されなければならない」。「もしも人が、宗教改革の特別な教義を<主観的な>教義と呼びたいのであれば、ただそれらの教義の特別な対象が、キリストの中で出来事として起こった人間に対する神の自由というよりも〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)というよりも〕、むしろまさに聖霊〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」として聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「<聖霊>の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕の中で現実のものとなった<神に向かって自由である神のための人間の自由>であったという意味においてである」。「それらの出来事、関係、秩序の特別な性質は、それらのものが、それ自身、世界内在的な視野の内部で意味しているところのものと並んでまた、なお啓示の客観的な実在からして、それであるから、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉>の受肉からして、ある特別な存在と意味を持っているということである。啓示の中で客観的に世界の中に入って来て、一度にすべてにわたって力を奮う仕方で世界の中に語り入れられた神の言葉が、それらの出来事、関係、秩序を通して、この世界の中でさらに引き続いて語ってゆこうとしているということ、換言すればこの世界のさらに続いての空間と時間の中で、知覚され聞かれるということを欲しているということが、超越的な視野の中でのそれらの存在と意味である。それらの出来事、関係、秩序を通して、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の子あるいは〕神の言葉は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)において〕この世界にあって〔空間的に〕『広がってゆこうとしている』〔、また時間的に累積させてゆこうとしている〕」。「まさに〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、<間接的に>である」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるし>の中においてである」。このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」におけるその内在的本質である神性が肉となったのではなく、その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>が肉となった」、「この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」となった――「これが、すべての<しるし>の最初の、起源的な、支配的な<しるし>である」、換言すればそれは、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間自身の「意味世界」・「物語世界」、「存在者」では決してないところの、徹頭徹尾神の側の真実としてある、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉としての<「存在者」>である〔すなわち、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」である〕。このような訳で、その「最初の、起源的な、支配的な<しるし>に基づいて、そのほかにも神の永遠の言葉〔何故ならば、「語り手の言葉」、すなわち「起源的な第一の形態の神の言葉」である子としてのイエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本するとする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」<子>だからである〕の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」、すなわち「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書が、「啓示との<間接的>同一性」(啓示との区別を包括した同一性)においてその最初の直接的な第一の「啓示の<しるし>」として<客観的に>存在している、それから「教会に宣教を義務づけているその聖書」を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」であるイエス・キリストの教会の宣教(説教と聖礼典)が<客観的に>存在している――この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」が<客観的に>存在している。「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>である」。「それらは、‥‥‥それを通して神の言葉が、人間によって聞かれ、同時に人間を義とし聖化する言葉となることを欲している道具、換言すればそれを通して神の言葉が、それの内容である神の恵みを、人間に対して執行しようと欲している道具である。それらの道具としての機能は、それらが、啓示の客観的な実在を被造物的な実在の中に隠す〔啓示の<秘義>〕ということ、まさにそれと同時にまた、それらが、啓示の客観的な実在をあらわにする〔<秘義>の啓示〕ということである。言い換えれば、まさにそのような被造物的な実在の形式の中で、それらは、言うまでもなくそれ自身また被造物的な実在に他ならない人間に対して、啓示の客観的実在を近づけるのである。それらは、啓示を指し示す。それらは、啓示を証しする。いや〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕肉となった神の言葉そのものが、それらを通して自分自身を、決して無駄に肉となったのではない言葉として、一度ですべてにわたって力を奮う仕方で語られた言葉として、実際に力を発揮する言葉として〔何故ならば、聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける啓示自身が、その「啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているから〕証しするのである。あれらの出来事、関係、秩序をただ単に世界内在的な視野の中だけでなく、またこの超越的な視野の中で<しるし>として見て取るか見て取らないかということは、われわれの恣意に基づいてはいない。そのようなことができるように、われわれに能力や資格を与えてくれる世界観はない。それはまた、われわれに対して、そのことを妨げ得るような世界観がないのと同様である」。このような訳で、「あれらの出来事、関係、秩序は、言うまでもなくまた存在的にも、それらの被造物性の中でもともとそれらに特有な規定に基づいているのではなく、むしろそれらがその被造物性の中に現にあるし意味していることに基づいているし、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の子あるいは〕神の言葉が事実それらを用いることを通して<後から>付け加わってくる規定に基づいているのである。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の子あるいは〕神の言葉の道具は、ただ神の言葉そのものを通してだけ〔ただ神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を通してだけ〕、それらが神の言葉の奉仕の中であるべきはずのものなのである。そのようにしてまた、人間に対し彼らが世界内在的な見方を超えて超越的な見方の中ででも見る能力、換言すれば<しるし>を受け取ってそれを理解する能力を与えるところのものは、ただ神の言葉自身〔ただ神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を通して〕だけである」。このような訳で、「それらが<しるし>であるということは、被造物的実在そのものに内在している啓示の証言となる能力に基づいているのではなく、換言すれば〔一般的啓示、一般的真理、「『自然』神学」に立脚する〕存在の類比に基づいているのではなく、むしろご自分を世に向かって告げ知らせ、世界をご自分と和解させ給う神の意志の全能を通して、したがって啓示に対して能力を持た<ない>人間の性質をキリストにあって取り上げ、ご自分を通して啓示に対して能力のある者に<なし給うた>あの同じ恵み深い意志の全能を通して〔何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」し、「自分が――つまり〘生来的な自然的な類的機能を持つ自由な〙『自分の理性や力〘感性力、悟性力、想像力、意志力等〙によっては』――全く信じることができない」から、それ故にイエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っており、それを通して〕、そのような者に<なる>し、そのような者で<ある>ところの神的な制定と任命に基づいてのことである〔したがって、われわれは、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「『啓示』神学」に立脚しなければならないのである〕。神によって与えられた啓示の客観的な実在の特定の<しるし>が力を発揮しつつ活動するということは、直接神ご自身の活動である。その<しるし>が指し示すということは、神が指し給うということである。しかもそれでいて、その<しるし>が指し示すということ自体は、あくまで被造物的実在であるし、被造物的実在であり続ける」。このような訳で、「そのことは、ここでも、神の恵み深い意志の全能を通して起こることであるが、同時にまたそのことは、神の恵み深い自由の中で〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて〕起こることである。神は、<われわれ>を神の啓示の<しるし>に結びつけ給うたが、しかし、<ご自身を>啓示の<しるし>に結びつけ給いはしなかった。それらの<しるし>は、神的尊厳さと栄光の<証言>であるが、決して神的尊厳さと栄光の制限ではない」――「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない。したがって、それは、『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」。
聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教)としての「第二の形態の神の言葉」である聖書、それからその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の客観的な信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」という枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えた教会(すべての成員)、神の子供たちとしての「啓示の主観的な実在の中での神の啓示」は、その枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「神によって与えられた啓示の客観的な実在の特定の<しるし>から成り立っている」。その<しるし>に基づいて、「人間は、啓示の客観的な実在、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは神の〕言葉の受肉〔、この肉、人間、「真意罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕から指示と約束を受け取ることができる。このことは、神の啓示の主観的な実在〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)の実在、神の子供たちの生、実在〕の‥‥‥客観的側面である」。「われわれがさらに続けて」、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、われわれを神の啓示の<しるし>に結びつけ給うたが、しかしご自分を啓示の<しるし>に結びつけ給いはしなかったし、それらの<しるし>は、神的な尊厳さと栄光の証言であるが、決して神的な尊厳さと栄光の制限ではない」ところの「<しるし>を、神がわれわれに与えるということは、神の啓示が、主観的に実在である場所としての教会の客観的側面であると言う時、われわれは、それと同じことを言っているのである〔何故ならば、聖書の中で証しされている<客観的な>神の啓示を、その中での主観的側面としての<主観的な>「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」として贈り与えられるためには、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの、「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教を必要とするからである、ちょうど聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を全世界としての教会自身と世のすべての人びとが<現実的に所有することができるためには>、あの「神への愛」とその「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」の告白・証し・宣べ伝を必要とするように〕」。
先ず以て、「〔「第二の形態の神の言葉」である〕預言者および使徒たち<と>〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕イエス・キリストとの出会いの直接性における直接的、絶対的、内容的な権威と自由」――すなわち、「イエスの弟子たちがキリストの<後に従う>随従は、<直接的な>唯一回的特別なそれであり、繰り返され得ないものである」。「第二の形態の神の言葉」である「預言者および使徒たち」<と>「起源的な第一の形態の神の言葉」である「主なるイエス・キリスト」との関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係である」。したがって、そうした「第二の形態の神の言葉」である「預言者および使徒たちの現実存在」<と>「第三の形態の神の言葉」である「教会、その成員の現実存在とは、本質的に同一ではない」、本質的に両者を同一化することはできない。それだけでなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)からして、教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」を、「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「第二の形態の神の言葉」である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」に「先行させることはできない」。また、「第三の形態の神の言葉」である「教会」(すべての成員)は、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、「第二の形態の神の言葉」である「聖書」を媒介・反復することなしに、すなわち「第二の形態の神の言葉」である「聖書」を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」なしに、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことなし、「<直接的に>〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕イエス・キリストと出会い関わることはできない」。言い換えれば、「第三の形態の神の言葉」である「教会」(すべての成員)は、「第二の形態の神の言葉」である「聖書」を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことを通して、「起源的な第一の形態の神の言葉」である「イエス・キリストと<間接的に>出会い関わる」のである。「『福音と律法』の<現実性>における<勝利の福音>の内容」は、『福音と律法』によれば、次のように言うことができる――聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、『福音と律法』によればそのこと自身が「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」であるのであるが、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、神人協力もということを目指すところの、生来的な自然的なわれわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が肉となり給うことによって〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における、その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、その外在的本質である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」となり給うことによって〕、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリスト<の>信仰』は〔すなわち、『イエス・キリスト<の>信仰』の属格は〕、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」。このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である。このことからして、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく>〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」として理解された信仰⦅この先ず以て人間的な契機を媒介させる理解は、<人間>「ルターの翻訳〔既存の聖書訳〕の<絶対化>、<無謬性化>である」。この還相的観点を持たないところの、律法と福音を二元論的に対立させ、「先ずは罪人を怖れさせ 、その罪を暴露して 、痛悔し且つ回心させるためには 、誡めを説教すべきである。しかしそれだけではいけないので、その次に他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべきである。かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る。さらばキリストを信じなさい。あなたが信じるならこれを得られるし 、信じないなら得られない」というルターの『キリスト者の自由』におけるような信の<一方通行的な>ただ<往相的観点>だけからする先ず以て<人間的な契機>を媒介させる理解の仕方は、それ故に徹頭徹尾ただ<神の側の真実>にのみ期待しない理解の仕方は、この不信の時代と現実を生きる、この無神性の時代と現実を生きる、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の問題を包括することができない理解の仕方である、不信と非知を包括することができない理解の仕方である。まさにこの先ず以て人間的な契機を媒介させる理解の仕方には、近代へと向かう時代と現実が加担しているし、近代以降の<人間中心主義>を主調音とする時代と現実が要請していたと言うことができる。何故ならば、ルターも、われわれと同じようにある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて生き思惟していたのであるから。聖書の中で証しされているところの、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける救済および平和は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「成就と執行、永遠的実在」としてある、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和である⦆、換言すれば「イエス・キリスト<を>信じる信仰」として理解された私の信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである。この徹頭徹尾ただ神の側の真実にのみ期待し依拠する理解の仕方は、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の問題を包括することができる理解の仕方である、根本的包括的に原理的に全世界としての教会自身と世のすべての人々に、内在的な外在的な不信にも非知にも、「完全に開かれた」理解の仕方である〕』(ガラテヤ二・一九以下)。〔このような訳で、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。<そのことが現実である>のは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。このことが、「『福音と律法』の<現実性>における<勝利の福音>の内容」である。
「以上のことを確認するに際してわれわれの出発点となる聖書的事情は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〕神の啓示は、旧約および新約聖書によれば常に直接的と同時に<また>間接的に人間のところに来るということである」。聖書の中で証しされている神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての「神の啓示は、〔その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を通して〕神が人間に向かって語り、人間に対して働きかけるためにどのような仲介者および手段を用いられるとしても、その際あくまで神ご自身がその語りと行動の主体であり続け給う限り、<直接的に>人間のところに来る」。聖書の中で証しされている神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての「神の啓示は、〔その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を通して〕神が特定の仲介者と手段を用い給うということは、そこで神ご自身が身を引いてしまうとかご自分の性質と活動を該当する被造物に委譲してしまわれることを決して意味しない限り、<直接的に>人間のところに来る」。「しかしまた、〔聖書の中で証しされている神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〕神の啓示は、それが実際的問題として被造物的な仲介者および手段なしには来ることができない限り、あるいはそれが事実その特質において規定され、自分と同じものであり続ける被造物的な場と枠の中で生起する限り〔換言すれば、全世界としての教会自身と世のすべての人々が、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができる>ためには、「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を内容とする福音の形式である律法、神の命令・要求・要請、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」の告白・証し・宣べ伝え)を必要としているように、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、その中での主観的側面である<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」<と><客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」としての、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の客観的な信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」説教と聖礼典)を必要としている限り〕、<間接的に>人間のところに来る。何故ならば、ちょうどイエス・キリストが、その人間性〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の神性において、また〘「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」において〙神の神性と共に、直ちにまた神の人間性もわれわれに出会う」その人間性〕に従えば、その空間的―時間的な偶有性全体の中でその人間、ただその人間でだけあり給うように、また世界の中にあるその対応は、全く特定のほかのものと取り換えられることができない対応であるからである」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは「神の言葉は、〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて現存する、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証されている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教において〕偶発的な同時性、すなわち特定のアノ所デアノ時が、特定の此処デ今となる独一無比な言葉である。すなわち、神の言葉は、その都度の、全く特定の一回的な、独一無比な言葉であるが、しかしまた、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、〕神の言葉は、神の口を通して〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」において〕語られて同時的である。時の全く厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神が、「世界の中での神的な<しるし>を与えるということも、聖書によれば、偶有性、事実性の性格を持っているのであり、それ故に全く特定の性格を持っているのである。特定の<しるし>が、それとして選ばれ打ち立てられている。したがって、繰り返し出てくる特定の仕方で関係し合っているある種の秩序に適った規則正しさの中で、それらが、<しるし>として現にあり、意味すべきところのものであるし、また意味している」。
「われわれは、ここで先ず最も明瞭ですべてのそのほかの<しるし>を包括しているイスラエルの<民の選び>という<しるし>のことを考えてみる」。この「イスラエルの民の選びは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〕客観的な啓示、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは神の言葉の〕受肉と同一ではないが、しかし、それは、明らかに最高に包括的な仕方で客観的な啓示、受肉の<対応>である。客観的な啓示がただ単に客観的でだけあり続けないで、人間の身に起こり、その限りまさに主観的な面において一つの歴史的な場所を持っている限り、イスラエルの民の選びは客観的な啓示に属している。イエス・キリストの出現は、まさにほかならぬこの<対応>を持っている。したがって、もしもそうでないとしたら、それは、イエス・キリストの出現ではないことになる。何故ならば、その具体性全体の中で、イエス・キリストの出現はその<しるし>を指し示しており、またイエス・キリストは、アブラハムの約束されたすえであるというまさにその<しるし>こそがイエス・キリストの出現を指し示しているからである。何故その<しるし>でなければならないのか、何故アブラハムの選びでなければならないのか、何故ヤコブの中でそれは確認されなければならないのか、何故それらの部族がエジプトにおける奴隷の状態から解放されるということ起こらなければならないのか、何故シナイ山で、後にはエルサレルムで、その民の間に神が住まわれるということが起こるのか、何故イスラエルの世界史的な地位と役割の終わりを表示しているところの神のもろもろの裁きが下されなければならないのか、最後に何故イエス・キリストは、まさにユダヤ人のメシヤとして来たり給うたのあろうか〔何故ほかの仕方ではなかったのか〕。われわれは、ここで、ただ消極的な答えを与えることができるだけである。何故ならば、そのような可能性について考慮することは、旧約および新約の聖書的証人たちにとって明らかに念頭に浮かばなかったことであり、それであるから〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神を尋ね求める〕人は、彼らの証言を読むに際してそのような可能性を全く忘れてしまわなければならないことである。したがって、まさにすべての積極的な基礎づけから身を引いている<偶有性>と<事実性>の中でのイスラエルの選びこそがまことの<しるし>である。言い換えれば、そのような〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〕神の子は、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて〕ご自分に属する者たちを世のただ中にあって、世のただ中から選び、召し、義とし、聖化し給うのである」。「ここで問題になってくるそのほかの聖書的証言の要素に関しても事情は同様である。例えばイスラエルの民が<割礼>の<しるし>によってほかの民から分けられ区別されるということそれ自体は、近東のほかの諸民族がまた同じ儀式を知っていたということからして、その儀式そのものが問題なのではなく、その儀式が神のよって制定され任命されるということによってもってかかっている。すべてのことが、その民のもとで、その儀式という手段を通して、キリストにあって遂行されるべき裁き〔律法、神的な否、死〕を、キリストにあって来たるべき恵み〔福音、神的な然り、生〕を約束し給う契約の主によってもってかかっている。それだからこそ、そのように欲し、またそのようになし給うた契約の主の故にこそ、確かにまたすべてのことが、その儀式によってもってかかっているのである。割礼はまことの<しるし>であるが、それは、何もそれが儀式であるという理由からではなく、それが神的な命令および約束の<しるし>であるからである」。「特にまた、キリストの中で結ばれた神と人間の間の契約の顕示としてのまことの<しるし>を与えることとして、イスラエルの中での<預言者>の現実存在と活動があげられなければならない。言い換えれば、選ばれた民のただ中でさらに特別に選ばれた神の人たちの現実存在と活動、イスラエルの民の特別な状況の中で、その都度その民に向かって神からくる救いと災い、災いと救いを告げ知らせつつ〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕神の言葉を語るところの〔「その最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」、すなわち預言者たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての「啓示との<間接的>同一性」(区別を包括した同一性)においてある「啓示の<しるし>」、「第二の形態の神の言葉」である〕特別に選ばれた神の人たち〔預言者たち〕の現実存在と活動は、そのようなまことの<しるし>を与えることである。〔「第二の形態の神の言葉」である〕彼らの存在と彼らの言葉そのものは、また〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは神の〕言葉の受肉の中での啓示の客観的実在〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身〕とは違う何かである。ここで可視的となるすべてのことは、言うまでもなく人間的なものである。そこにいるのは、人間的状況についての特定の人間的理解からして、人間に向かって語る人間、来たりつつある救いと災いについて描写する彼らの活動の中ででも人間的であるところの人間である。ただ全体の把握できない縁として、そこで語られる際前代未聞の主張と強調をもって語られるその形式の中で、あるいは告げ知らされている救いと災いが神的起源を持つものであるという同様に把握できないその形式の中で、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕神の言葉が登場しているように見える。そこで〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」としての〕神の言葉が実際に登場しているということを、われわれは、ただ〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕キリストにあっての神の言葉の受肉を知る時に語ることができる。何故ならば、そこで可視的となることは、明らかにただ<しるし>、ただ神の言葉の<対応>でのみあるからである。しかし、ここで『ただ』ということは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の子あるいは〕神の言葉そのものが、人間の世界のただ中で、理解を絶した仕方でそれらの人間の唇に置かれ、理解を絶した仕方でそれらの人間的な歴史的状況の中に語り入れられ、同様に理解を絶した仕方であの時代の人びとによって聞かれ、その出来事全体の中で、そのような<しるし>、そのような<対応>を持つということが、まさに〔「第二の形態の神の言葉」である〕旧約聖書の預言者の言葉の中で起こる〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕啓示の豊富な内容である。旧約聖書が、われわれに向かって、〔「第二の形態の神の言葉」である〕預言者の現実存在と活動を〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕神の啓示として証しする時、旧約聖書は、明らかに包括的に理解を絶した仕方で、しかし事実的に、神ご自身の語りと関わらしめているので、神ご自身が語ることが〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」、〕そこで聞こえるようになる、人間的に聞くことが存在する、人間の口でもって語られる『主かく言い給う』が存在する。すなわち、それに対して主がただ後から〔何故ならば、その人間の思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」からである〕公に承認し給うだけでなく、そこで人間によって語られたことは、事実神が委任されたことであり、神ご自身がご自分の言葉に対するその被造物的な対応を欲し給い登場させ給うが故に、それが語られる<前に>すでに神がそれを公に承認し給うた人間の口でもって語られる『主かく言い給う』が存在する。同様の仕方で、すでに別な文脈の中でふれられた旧約聖書のもろもろの<形態>概念――すなわち王、祭司、律法、犠牲、幕屋、聖なる国が、いずれも共通の中心を指し示している<しるし>の関連し合っている包括領域として評価されなければならない」。
「人はまた、そこで表示されている事柄がすべての<しるし>に相対して持っている優越性と自由の<しるし>――すなわち、旧約聖書のその<しるし>の世界全体は、キリストの出現と共にいわば一撃のもとに消え失せてしまった、あるいはむしろ『来るべきよいことの影』(へブル一〇・一)として認識されるようになるということ、その後新約聖書の教会の中で直ちにいくつか少数の新しい<しるし>の中でなお生き続けるために『来るべきよいことの影』として認識されるようになるということを見て取らなければならない」――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史〔「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で実在の成就された時間」〕に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、神的否、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、神的然り、生〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活〔、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「ここの神の言葉がある」「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で<実在の成就された時間>」〕へと向かっている。この<実在の成就された時間>は、新しい世〔、時間〕のはじまりである」。<先ず以て>、「キリスト復活の四十日」、「キリスト復活四十日の福音」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「ここに神の言葉がある」「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在としての実在の成就された時間」に包括されたところの「まことの過去」は、〘「起源的な第一の形態の神の言葉」である〙「イエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間、実在の成就された時間を<待望>する形においてある〘「第二の形態の神の言葉」である〙旧約聖書の時間、預言者の時間である」。<それから>、「キリスト復活の四十日」、「キリスト復活四十日の福音」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在としての実在の成就された時間」に包括されたところの「まことの未来」は、「復活されたキリストの再臨、終末、「完成」――すなわち、<すでに>出来事として起こった「成就と執行、永遠的実在としてある」「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「<完成>」を<待望>する時間として、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「<完成>」を<待望>する時間として、「実在の成就された時間から……由来していた<特定の>歴史の時間、イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間、〘「第二の形態の神の言葉」である〙新約聖書の時間、使徒の時間、「実在の成就された時間、聖霊降臨日の<後>の時間である」。<それからまた>、イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間、〘「第二の形態の神の言葉」である〙新約聖書の時間、〘「第二の形態の神の言葉」である〙使徒の時間の<後>に続く時間」は、「第二の形態の神の言葉」である「聖書こそが、〘「第三の形態の神の言葉」である〙教会に宣教を義務づけている」ということからして、その「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの<勝利の福音>を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの<勝利の福音>を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が聖書の中で証しされているキリストの<勝利の福音>を<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教における時間である」。「あの古い<しるし>の世界全体〔旧約聖書的な時間と世〕の代わりに、その〔新約聖書的な時間と世における、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕使徒、〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である〕宣教、洗礼と聖餐を持った<教会>が登場してくる。何故ならば、〔新約聖書的な時間と世における、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕使徒、〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である〕宣教、洗礼と聖餐を持った教会こそが、実際に教会に関して、教会の可視性に関して語られるべきすべてのことだからである」。「すでに〔神性を内在的本質とするところの神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――「これが、すべての<しるし>の最初の、起源的な、支配的な<しるし>である〕キリストの出現それ自体が、言うまでもなくただ<しるし>〔「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」〕を与えるという形式の中でだけ、それが現にあるところのものとして可視的となり理解できるものとなる〔ここに、起源的には、「神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>がある」〕。この世界の中で、人びの耳の前で鳴り響いたイエスの言葉、またこの世界の中で人びとの目の前で起こったイエスの行為は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の〕受肉した言葉のことを語る言葉である。また、キリスト出現以後の〔「啓示の<しるし>」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「啓示の<しるし>」の<しるし>としての「第三の形態の神の言葉」である〕教会も、言うまでもなくこの世界の中にあるのであり〔すなわち、ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて存在しているのであり〕、それとして<しるし>を与えることを必要とし続けている人間から構成されている。〔第三の形態の神の言葉である〕教会は、〔「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕キリストではない。したがって、教会は、キリストの全権、すなわち永遠の言葉そのものの無比な全権を持っていない、またキリストの行為をなすようにとの全権を委任されていない。使徒行伝によれば、はじめしばらくの間、キリストの弟子たちの間でも力を発揮して働いていた預言と奇蹟の行為は、明らかに間もなくやんでしまわなければならないところの、ただキリストご自身の出現の反映でしかない。しかし、やんでしまうことのないものは、十字架につけられ甦り給うた方によってなされた〔「啓示との<間接的>同一性」(区別を包括した同一性)においてある「啓示の<しるし>」としての「その最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的にただ一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)である〕十二使徒の召命、委任、派遣であり、そのキリストについての彼らの証言に基づいて、さらに先へと続けられてゆく〔「啓示の<しるし>」の<しるし>としての、聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会の業〔「聖書によって義務づけられている」教会の宣教、説教と聖礼典〕である。すなわち、キリストについての説教、洗礼を施すこと、聖晩餐を祝うことによってキリストが宣べ伝えられること、この教会の宣教を通して、すべての国民から集められるところの民である。それが、新約聖書の新しい単純化され集中された<しるし>の世界である。ただし、その歴史の中でのキリスト教会の現実存在全体は、それとして、常に繰り返し、あの起源的な〔「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されその人間性と共に神性を賦与されれ装備されたイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の神の言葉」である〕十二使徒の召命、委任、派遣と共に与えられた<しるし>でもってはかられ、そのような<しるし>の前で自分が正しいものであることを実証しなければならない」。教会は、自分の正しさを、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことの中で実証しなければならない――何故ならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた〔聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の一つの「教会的な補助的奉仕」としての〕教義学的作業の成果〔それぞれの時代、それぞれの世紀における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)に連帯し連続する個体的自己の成果の世代的総和、「キリスト教に固有な」類、その「キリスト教に固有な」類の時間累積としてある教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoの連続性〕は、根本的には……真理が来るということの<しるし>である」からである。「あのより狭い意味での、そしてこの広い意味での新約聖書の<しるし>の世界も、〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」としての〕『主が来られる時に至るまで』(Ⅰコリント一一・二六)という留保条件もとに立っている。〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」における〕われわれの時間の終わりと共に来る神の国の実在に照らしてはかられるならば、確かにまたそれらの<しるし>も、〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」における〕『来るべききよきものの影』である。しかし、それは、その留保条件のもとで、それであるからわれわれの時間の内部で、確かに<立っており、力を奮う>のであって、それは、キリストにあって客観的な啓示〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、その<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面である<主観的な>「認識的な<必然性>」を包括した<客観的な>「存在的な<必然性>」としてのキリストにあっての客観的な啓示〕から、ちょうど以前旧約聖書の<しるし>の世界がそれから切り離してしまうことができなかったのと同じように、切り離してしまうことができないのであり、それはまた、旧約聖書の<しるし>の世界の場合と同じように、厳格にキリストとにあっての客観的な啓示に属している〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、終末論的限界の下でのその途上性で、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの「勝利の福音」の告白・証し・宣べ伝えという連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す「第三の形態の神の言葉」である)〕教会、キリストの体、したがって〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕キリストご自身は、〔「第二の形態の神の言葉」である〕新約聖書のそれらの<しるし>があるところに、換言すれば〔「第二の形態の神の言葉」である〕使徒の務めの制定と共に打ち立てられ、〔「聖書こそが教会に宣教を義務づけている」ということからして、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」というところでの〕その任務に適った仕方でなされる〔「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教、すなわち〕説教、洗礼、聖晩餐があるところにあるのであり、ただそこでのみあるのである。ここのところで、われわれの聖書的考察は、全くアウグスブルク信仰告白書七条の言明に合流してよい――マタワレラノ諸教会ハコノヨウニ教エル、唯一ノ聖ナル教会ハ時ノツヅク限リツヅクベキモノデアル。更ニ教会ハ聖徒ノ会衆――ソコデ福音ガ純粋ニ教エラレ、聖礼典〔洗礼と聖晩餐〕ガ正シク執行サレル聖徒ノ会衆――デアル。人はここで、まさにそれらの<しるし>の必然性と有用性は、それらが偶発的に事実的に所与として与えられてあることを指し示す指示でもって基礎づけられているだけであって、決してそれ以外の仕方で基礎づけられたり証明されることを期待し要求することはできないということについて明らかでなければならない。われわれは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕イエス・キリストにあっての神の客観的な啓示のために、それらのものとは別な<しるし>を与えることや別な<しるし>を考えることはできない」。
イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)、啓示の主観的実在としての神の子供たちの生としての「啓示の主観的な実在の中での神の啓示は、確かに神によって与えられた啓示の客観的な実在の特定の<しるし>から成り立っているその<しるし>を与えるということは、それがキリストにあっての客観的な啓示との最も緊密な関連性から成り立っていることが確かである限り、その客観的な啓示そのものと同様に、あくまで神的な行為として理解されなければならない。確かにその<しるし>を与えるということは、神のみ手の中にある道具を活用することとして理解されなければならない。したがって、それらの<しるし>が存在しているということは、啓示された神が、決して自ら一個の世となられたとか、あるいは教会に集められた人びとの自由処理の中に陥ってしまったとかということを意味しない、むしろキリストにあって世と人間が神のみ手の中に落ちたことを意味している。そのことは、あくまで神の支配の樹立を意味しているのであって、宗教的な人間支配の樹立を意味していない」――神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「<秘義の>啓示」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」)「イエス・キリストが、われわれ人間に対して、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕聖書および〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会の宣教を通して同時的となる時と所、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みを通して、〕『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところにおいては、われわれは、神の支配のもとに入ることを承認し確認する。したがって、われわれは、世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する。自然の光の中でではなく、〔裁きを包括した〕恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定〔裁き〕、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示の場所は、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も(『福音と律法』によれば、このことこそ、「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」である)、神人協力もということを第一義とする、それ故にキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、恵ミノ類比(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「啓示神学」に立脚しようとしないところの、「一般的な啓示」、「一般的な真理」、「存在の類比」、「『自然』神学」(『カント』によれば、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」というそういう神学、また『教会教義学 神の言葉』によれば、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠したアウグスティヌスの造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」というようなそういう神学、また『ヘーゲル』によれば、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混交、神の自由を認識していないという事態にあるヘーゲルの強力な痕跡をもったシュラエルマッハー等」の自由主義的近代主義的プロテスタント主義的神学のようなその最初から「人間学」そのものであるようなそういう神学、また「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>⦅『ローマ書』⦆を堅持しないところの、それ故にその聖書の中で証しされている「神の彼岸性を克服した〔恣意的独断的に止揚した〕神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念における宗教」⦅山崎純『神と国家』⦆のようなそういう神学、また木田元『ハイデッガーの思想』におけるハイデッガー自身の思惟と語りによれば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神への信仰ではなくて、「前期ハイデッガーの哲学原理に基づく絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理」⦅『ルドルフ・ブルトマン』⦆に依拠した結局は類的機能を持つブルトマン自身の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化されたブルトマン自身の意味世界・物語世界としての「存在者レベルでの神への信仰」としかならないまさに「人間学的神学」そのものであるようなそういう神学における、そういう神学に依拠した教会の宣教における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>に過ぎない神秘主義へと変わって行くことが見渡せる場所である」。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示の場所は、われわれ人間の個とその現存性――すなわち、ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて生きる人間の個、その個の時間性、その個の時間累積、自己史、個体史および人間の類とその歴史性――すなわち、個々の世代の個体的自己の成果の世代的総和⦅類⦆としての「材料、資本、生産力」、「言語」、「一対の性、一対の性の共同性としての家族」、その類の時間性、その類の時間累積、人類史、世界史、歴史)の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、<世俗的真理>をも正直に受け取ることができる」場所である。「われわれは、ここで、福音主義的な教会概念とローマ・カトリック的教会概念が鋭く袂を分かつ場所に、また今日遂にその最も内的な傾向において正体を明らかにした近代主義的プロテスタント主義的教会概念とが鋭く袂を分かつ場所に立っている」。しかしながら、ちょうど〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における〕客観的な啓示の行為が、まことの人間であり給うまことの神としてのイエス・キリストの<存在>の中での神の<行為>であるように、それを通して客観的な啓示がわれわれのところに来る<しるし>を与えるという行為は、〔「第二の形態の神の言葉」である〕使徒職の制定と共にいまや確かにわれわれに与えられたそれらの<しるし>の<存在>の中での<行為>である〔言い換えれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」としての、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における神の<子>あるいは神の「<言葉>が肉となった」、「この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」となった「これが、すべての<しるし>の最初の、起源的な、支配的な<しるし>である」が、その「すべての<しるし>の最初の、起源的な、支配的な<しるし>である」「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「啓示の<しるし>」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「啓示の<しるし>」の<しるし>としての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教の存在である〕。確かにその<しるし>を与えるということは、それが言うまでもなく、まさに常に〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられた〕新しい人間の側での見る目と聞く耳を持つようになることが確かである限り、〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中での世代から世代にわたって、〔終末論的限界の下でのその途上性で、〕繰り返し〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、〕新しく認識され理解されなければならない。この点に関しても、福音主義的な教会概念とローマ・カトリック的な教会概念は、ただ『神聖にして犯すべからざる』信仰告白を知っているプロテスタント主義の教会概念もそうであるが、鋭く袂を分かつ。とにかく〔ある歴史的現存性のその時代と現実のただ中で存在する「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中でなされなければならないような啓示の新しい認識に際しては、いつも厳格に〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕啓示に属していて、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕啓示から切り離すことのできないその<しるし>を与えることの解釈が問題でなければならない〔「第二の形態の神の言葉」である聖書、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語<原典>「イエス・キリスト<の>信仰」の<属格>を「目的格的属格」として解釈され理解された信仰、すなわち「イエス・キリスト<を>信じる信仰」として解釈され理解された信仰、この先ず以て人間的な契機を媒介させて解釈し理解する仕方は、近代へと向かうあの歴史歴現存性の時代と現実に強いられて生き思惟し語った<人間>「ルターの翻訳〘既存の聖書訳〙の<絶対化>、<無謬性化>である」。この還相的観点を持たないところの、律法と福音を二元論的に対立させ、「先ずは罪人を怖れさせ 、その罪を暴露して 、痛悔し且つ回心させるためには 、誡め〔律法〕を説教すべきである。しかしそれだけではいけないので、その次に他の言、すなわち恩恵の呼びかけ〔福音〕を説教して、信仰を教えるべきである。かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る。さらばキリストを信じなさい。あなたが信じるならこれを得られるし 、信じないなら得られない」というルターの『キリスト者の自由』におけるような信の<一方通行的な>ただ<往相的観点>だけからする先ず以て<人間的な契機>を媒介させて解釈し理解する仕方は、それ故に徹頭徹尾先ず以てただ聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての<神の側の真実としてのみある>事柄にのみ期待しないところで解釈し理解する仕方は、この不信の時代と現実を生きる、この無神性の時代と現実を生きる、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の問題を包括することができない解釈、理解の仕方である、無神と不信と非知を信の側に包括することができない解釈、理解の仕方である〘そのような解釈と理解の中で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」の告白・証し・宣べ伝え<や>観念の共同性を本質とするすべての国家、戦争の元凶である民族国家の無化を包括している「み国を来たらせ給え」という真剣な祈りがなされないままに、また世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いているということを真剣に認識し自覚しないまま、またトータルな世界認識の方法の問題を明確に提起しないまま、また戦争の元凶である民族国家の無化の問題を明確に提起しないまま、いつもただ時流に乗っかかり、その時々の「人間学の後追い知識」としての「混合神学」を構成することで体裁を保とうとしたり、また現実的な市民社会における社会的慈善団体の中の一つとなることで体裁を保とうとしたり、また憲法学者の主張等に依拠して政治的平和運動の団体の中の一つとなることで体裁を保とうとしたりする教会がいつも生起して来る、その背後に隠れている暗さを認識し自覚していないところの軽薄な明るさが蔓延した時代状況の中で、積極的にそのような時代状況に流される教会が生起してくる――太宰治『右大臣実朝』によれば、その背後にある暗さを認識し自覚していない、その背後にある暗さを包括していない軽薄な「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」(最高に暗い戦争のさ中にも家族の団らんはある)。「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」木を見て森を見ないという仕方での形而上学的な一面的な見方ではいけないので、「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は、裁きであることによって、恵みである」というその全体性において解釈され理解されなければならない、神の啓示は<裁き>を包括した<恵み>であるというその全体性において解釈され理解されなければならない(Web上の「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」の中で、木を見て森を見ないという形而上学的な見方での「裁き」の側面を包括しない一面的なただ「恵み」の側面だけの理解において、そしてそのことこそが『福音と律法』によれば不信仰・無神性・真実の罪であるのであるが、「バルトが語る神の人間性とは、たとえ人間が神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということである」と書いたその牧師は、バルト自身の聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は、<裁き>であることによって、<恵み>である」という思惟と語りを全く理解していないのである。何故ならば、<客観的な>「存在的な<必然性>」としての「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「啓示の出来事」は、<客観的な>イエス・キリストの「受難と死〔裁き〕および復活〔恵み〕の出来事」としてのそれであるからである。作家のドストエフスキーも、『罪と罰』の中で、最高に最低の人間として終末論的信仰に生きたマルメラードフに、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐れんで下さる、……神様は万人を裁いて〔裁き〕、万人を赦され〔恵み〕、……最後の日〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」の日〕にやって来て、……われわれにみ手を伸ばされる。その時こそ、何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く。……主よ、汝の王国の来たらんことを」と語らせている。また、そのことを理解していないだけでなく、その牧師は、『ローマ書』の「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持していないのである)、ちょうど律法(裁き、死)は聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」(恵み、生)を内容とする福音の形式として、その「勝利の福音」に包括されたその全体性の中で解釈され理解されなければならないように〙。したがって、経済的基盤を資本主義に置き自由を原理とする人類史の西欧近代の果てにある、「私利と私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立と争いの生活および利害共同性との対立と争いの生活を強いられた、また資本主義の高度化と自由主義国家の成熟がもたらした「<私的>利害と<恣意的>自由の<優先意識>」により価値意識が多様化し、関係意識が衰退し、共同性統括力が衰退した、また他者を現実的に侵害しないところで成立する「個人主義」ではなく、他者を現実的に侵害する「利己主義」が蔓延した、この不信の時代と現実を生きる、この無神性の時代と現実を生きる、全世界としての教会自身と世のすべての人々の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の問題を包括することができるために、信の側において無神や不信や非知を信の側に包括することができるために、信の側において信<と>無神や不信や非知を架橋することができるために、その歴史的現存性のその時代と現実に強いられて存在する「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書のローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語<原典>「イエス・キリスト<の>信仰」の<属格>を、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「主格的属格」として解釈し理解することが強いられ要請されている、すなわち「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」として解釈し理解することが強いられ要請されている。ここに、「教会の宣教」(説教と聖礼典)およびその一つの「教会的な補助的奉仕」としての神学における、往相的観点だけでなく往相的観点と還相的観点とのその全体性において問題を扱うところの<思想の問題>がある――「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……〘「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である〙教会なきところではイエスはキリストであり給わない。その教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)、バルトにとってイエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「イエス・キリストにおける『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の中心は、〘教会共同性のような〙狭い共同体から、その事実をまだ知らぬ〔無神や不信や非知の〕すべての他の人々、広い共同体に向かっての運動において〘イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている〙、完全に開かれている」(『カール・バルト教会教義学 和解論 Ⅰ/1 和解論の対象と問題』)〕。それであるから、〔ある歴史的現存性のその時代と現実のただ中で存在する「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中には、〔「第二の形態の神の言葉」である〕使徒たちの任命を、具体的には聖書を通り過ごして問い、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〕福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ以外のものを、すなわち〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書に適う仕方でなされる説教と聖礼典の執行以外のものを問おうとする実際の啓示認識はあり得ない」。したがって、「第三の形態の神の言葉」である教会は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、詳しく言えば「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(換言すれば、ここにおいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は贈り与えられるのであるが、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」(この<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」は、その中の主観的側面である<主観的な>徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された」人間の理性性としての「認識的な<ラチオ性>」を包括している)という枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、「聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で」、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性における教会の宣教(説教と聖礼典)を目指さなければならないのである。「それらの啓示の<しるし>は、〔それぞれの時代、それぞれの世紀におけるその〕時代の中で生きている〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて存在する「第三の形態の神の言葉」である〕教会に対して生起するのであるから、啓示の<しるし>は、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」におけるあの「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ。聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことを通して〕常に新しくあるであろということに気が配られている。しかしまた、そこには、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中における聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理とは異なった、一般的啓示、一般的真理としての〕新しい啓示が存在しないように、新しい啓示の<しるし>も存在しないということに対しても気が配られている。われわれは、そのような新しい<しるし>を必要としていない。われわれは、全力をあげて、一つの啓示そのものと共に、またその一つの唯一の<しるし>を与えることを見て取り理解することに取り組むことが許される。そこで神の啓示が主観的に実在である場所〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)、神の子供たちの生の場所〕としての〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会は、まさに事実その厳格に<客観的な>側面を持っている」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教をより危険なものにしてしまうのは、教会の宣教が、正しい注釈を、先ず第一義的に優位に立つ原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕としての〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕イエス・キリストと共に、〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会に宣教を義務づけている教会の宣教の原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書に基づくことをしないところにあるし、正しい注釈を、最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的―批判的学問の判決に、依存させてしまうところにある。また、福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考えるところにある。また、宣教の規準〔・原理・法廷・審判者・支配者・標準〕を、聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは哲学、道徳、政治等におくところにある。また、特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとするところにある。また、ある社会機構あるいは経済機構の保持、廃止に貢献しようとするところにある」。バルトはまた、『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルバルト』では、次のように述べている――「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待すべきである」、「不毛な反抗や反論を避けて、西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まるべきである」。バルトはまた、『啓示・教会・神学』では、次のように述べている――「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている、国家は支配であり、文化は支配である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(「市民の生活と西欧の歴史の全体を覆っていて、現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題は、国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治的権力と、一方のすべての諸個人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割とする『牧人的』〔『司牧的』、『牧会的』〕と呼ぶことのできる権力〔司牧システムに基づいた社会的には教育制度、医療制度、監獄制度等、また政治的には福祉政策〕の無化にある」と述べているミシェル・フーコーは、権力は実体ではなく、「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプである。すなわちそれは、ある価値基準ある時ある場所において、聖なるものと俗なるもの、教えるものと教えられるもの、正常なものと異常なもの、支配するものと支配されるもの等へと関係を規定する政治的合理性の形態である」と述べている)。
サクラメント
バルトは、「1929年の『時の間に』誌第7巻の礼典論」で、次のように述べている――イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、「それ自身が語るものとして、洗礼は、一回的な繰り返すことができない出来事である」、また「そういうものとして、それ自身が語るものとして、聖餐は、繰り返し行われる出来事である」、それ故に「説教も、そういうものとして、それ自身が語ることを、〔聴衆に、全世界としての教会自身と世のすべての人々に〕語るべきである」。「サクラメント(聖礼典)の『聴者』〔『聴従者』〕」――すなわち、「次のような二重の生活が授与された者は、〔「恵み」の〕光、キリストの中にある恵まれた、義とされた盲人、罪人の交わりとしての〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会である」、また「われわれ人間の感覚と理解の世界が、神を見る目、神に聞く耳となるということ」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるということである、換言すれば「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であることをやめることなく、しかも私が失われた盲人であることをやめることなく、そのような神との交わりを基礎づけるような一つの出来事が、この私の世界の中に起こったということである」。その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である「神の言葉の啓示は、神の<しるし>設定〔「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」の設定〕を意味する」。したがって、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示の<しるし>」)、それからその聖書を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」である説教と聖礼典によって構成される教会の宣教(「啓示の<しるし>」の<しるし>)は、「聖礼典的な実在」と呼ばれる。
「サクラメント」――「この言葉は、秘義と名づけられていて」、一般的真理ではなく、「恵みの真理、それ自身から語りかけてくる啓示の真理である」。「唯一無比なキリスト教の秘義であるサクラメントは、イエス・キリストにおける御言葉の受肉である〔「自己自身である神」としての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である「われわれのための神」としての神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」である〕。<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)からして、「十字架ノ神学者」や「栄光ノ神学者」という在り方は、木を見て森を見ないという仕方でのその一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化したそれであって、その思惟と語りは、誤解、誤謬、曲解に基づいたものである。前者の神学者は、「サクラメントの自然的な面、すなわち感覚的、可視的な対象、キリストの十字架を想起させる物質的<徴>を重視する」。また、後者の神学者は、「われわれのまわりにあるすべての見えるもの、すなわち感覚的、可視的な対象、造られた自然の無限の世界を、見えない神の見える<徴>そのものであると理解する信仰的現実主義、汎サクラメンタリズムに立脚しており、サクラメントを、物質面に向かって世俗化してしまう」。さて、「洗礼の水〔自然〕に沈められることは、私たちがキリストと共に死に、甦ることの<しるし>となり、聖餐のパンと葡萄酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕を食らい、飲むことは、キリストの献身と御父への昇天によって私たちを支える<しるし>となる。それは自然〔感覚的、可視的な対象としての水、パン、葡萄酒〕における神の言葉であって、それ以外の何物でもない〔それ故に、それは、神の言葉そのものではない〕」。「サクラメントの唯一性は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕三位一体の神の唯一性に対応し、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉」としての〕御言葉の受肉〔<客観的な>「存在的な<必然性>」〕、御霊の注ぎ〔<主観的な>「認識的な<必然性>」〕の唯一性に対応する〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の唯一性に対応する〕」。「サクラメントは、<しるし>であり、さらにそれ以上に有効な力である」。「洗礼は水〔客観的な対象物としての天然自然水あるいは人間によって加工された、人間化された自然としての飲料〕の注ぎよって人間がキリストと共に死に、甦ることを意味する象徴能力、<しるし>であり、聖餐式はパンと葡萄酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕によってキリストの義と聖にあずかることを意味する象徴能力、<しるし>である」。したがって、この「<しるし>、象徴能力そのものは、決して神の力そのものではない」、ちょうど「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)における説教の言葉が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ということからして、すなわち説教の言葉が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものである」ということは、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による神ご自身の決定事項に属するということからして、それは、神の言葉そのものではないように。「被造物的現実に神の真理の対応を認めるならば、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神への〕神礼拝〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、啓示神学、「『<非>自然』な神学」に立脚した神崇拝〕だけでなく、偶像礼拝〔一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」、「『自然』神学」に立脚した偶像崇拝〕を招くのである」。したがって、「あらゆる種類の祭儀的食事〔大嘗祭も、神と天皇(人間)との共食祭儀である〕は、……他宗教の中にもある宗教現象の世界で常に在庫品であるという意味でキリスト教のそれも相対的な位置を占めているという歴史主義的なキリスト教的サクラメントの宗教史的起源を問う問い」に対して、〔この問題を明確に提起した〕「<しるし>、象徴能力の概念は、答え〔解決〕となるものである」(マルクスの『ユダヤ人問題によせて』によれば、「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」)。「<しるし>、象徴能力そのものは、決して神の力そのものでない」とすれば、「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中で<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことを通して「キリストへ服従して語られることによって、神の言葉となるように、洗礼式や聖餐式のそれ〔「自然的出来事」、「物質的出来事」〕がキリストへの服従によってなされる時、また神ノ制定ニヨリ、その設定の力によって、神の言葉と命令によってなされる時、神の言葉の<しるし>〔「啓示の<しるし>」の<しるし>〕、象徴能力となる」。このような訳で、「サクラメントは見える言葉、サクラメントであるイエス・キリスト〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「聖礼典的な実在」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「起源的な第一の形態の神の言葉」〕は受肉された言葉として、説教の言葉とサクラメントとの両方の<原型>である」。「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である「弟子たちに、ただ説教だけでなく、洗礼を命じ給うた〔「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕キリスト、それ故にサクラメントを制定されたキリスト」は、「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「第二の形態の神の言葉」である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「聖書の中で証しされているキリストである」。「自然的・物質的出来事であるサクラメントが、力ある<しるし>とされるのは、聖書の朗読によるのではなく、〔「先ず第一義的に優位に立つ原理〘・規準・法廷・審判者・支配者・標準〙としての〘「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〙イエス・キリストと共に、〘「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〙教会の宣教における原理〘・規準・法廷・審判者・支配者・標準〙である「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である聖書――この〕聖別された言葉である聖書の証言、証しを責任をもって受け入れ宣べ伝える教会の宣教におけるそのサクラメントに、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みに基づいた〕福音ノ生ケル御声が伴うところにある」。「その時には、そのサクラメントは、単なる教会式典とは異なる、聖別された、力あるサクラメント、力ある<しるし>となる」。したがって、このことは、「御言葉に奉仕する者の信仰と服従がサクラメントの効力を生み出すわけではないこと、また不信仰と不服従がそれを破壊するわけでもないことを意味する」。何故ならば、「神の力は、神の自由な賜物である」からである。したがって、「説教においては、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて〕聖霊が語り、聖霊が聞くのであり、サクラメントにおいても、聖霊が与え、聖霊が受けられるのである。聖霊こそが、その執行と受領において、その実現を効力あらしめるのである。ここに、真のサクラメントがある。そして、その聖霊の証言は、個々人を信仰と服従へと呼びさますと共に、さらに裁きの座に人を置くこともでき、人を頑にすることもできるのである」。
カルヴァンは、「われわれ人間は、信ずる者として、愛する主よ、われ信ず、〔そのことを認識し自覚しているかどうかにかかわらず、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、日々瞬間瞬間、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神から遠ざかり遠ざかり続けている、罪を新たな罪を犯し犯し続けている〕信仰なきわれを助け給えと叫ばなければならないことを、よく知っていた」。すなわち、「キリスト教信仰は、一つの純粋な<受領>であって、決して<所有>ではない以上、神の声を聞くことであって、自分自身の声を聞くことではないのである」。ルターの礼典論は、「結果において、次の点においてカトリックの教理と同じになっている」。すなわち、ルターにとって、「聖餐の中の『約束ノ<シルシ>』は、『パント葡萄酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕ノ中ノ』キリストご自身である。洗礼の水〔自然〕は、『恵みに満ちた水』であり、『神の水』であり、『神の天的な、聖なる祝福された水』なのである。そこで『信仰は水〔自然〕によっている』」。このルターの教説は、次のような事態を生じさせる――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持しないところの、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)〔人間自身の意味世界・物語世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」に過ぎないそれには〕あらゆることが可能であり、(中略)〔またそれは、〕人を義とする……、……〔恣意的独断的な〕愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。〔その〕信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し〔たが、それは、〕……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――<人間>イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパン〔人間によって加工された、人間化された自然〕は高く挙げられたイエスの栄光化されたからだ〔自然〕であらねばならなかった。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地、神と人間を顚倒する可能性を意味しており〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を認識し自覚し堅持していないことを意味しており〕、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態、無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に顚倒不可能な関係だということ――そのことについて〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について〕、人々は、フォイエルバッハ〔の客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)〕を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」、「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の<無神性>は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。その時にこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった」(『バルト自伝』)。また、そういう事態に陥るルターの教説に対して、バルトは、次のように述べている――「われわれは、<しるし>の力の源泉を、<しるし>自体、<しるし>そのものの中に移すことをしない。(中略)信仰自体の中にあるのでもない。聖礼典の恵みは、信仰自体にも、<しるし>自体にも帰せられない」。「カルヴァンにとっては、聖礼典の恵みの源は、信仰自体にも、<しるし>自体にもなく、神御自身、恵みの自由、自由な恵みの賜物にある、その神の恵みの賜物が、<しるし>に授与され、信仰に授与される」――「ここに、礼典論についての、よりよい全教会的解決がある」。
「キリストのサクラメンタルな現臨とは、象徴的現臨のことである。それは、真理の一つの形式、<しるし>の形式である。したがって、この形式を根本的に拒否しようとする者は、サクラメントと共に、説教も否認し、強いては、啓示の概念全般を否定せざるをえない」。「キリストのサクラメンタルな現臨とは、聖霊の現臨にほかならない。それは、あらゆる物理的、心理的現臨とは違って、神から来る、自由な恵みの現臨である」。「真理と象徴」との架橋は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて起こる。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「聖霊の注ぎにおいて、水〔自然〕でもってするごとく、同時に聖霊〔恵み〕によって洗礼され、パンと葡萄酒〔自然〕で養われるごとく、同時にキリストの肉と血〔恵み〕によって養われることが起こるのである」。
「<サクラメント>という概念は、(訳として)起源的には(例えばテルトゥリアヌスおよびキプリアヌスの用語法の中で特にはっきりと見て取れるのであるが)後代におけるよりももっと包括的な意味で、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語り行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo」としての「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中で、人間に対して提供された信仰の秘義そのものを、それであるからわれわれが<しるし>を与えることとして記述してきたことを言い表してきたということである。したがって、人は、事実後になって用いられるようになった概念の特別な意味においても、その起源的に包括的な意味での<しるし>の定義と一致しないようなサクラメントの<一般的な>定義を与えることはできない。聖礼典ハ、……ワレワレニ対スル神ノ御意ノシルシ及ビ証シトナルヨウニ、マタコレヲ用イル者ノウチニ、信仰ヲ励マシススメコレヲ堅クシヨウトシテ、定メラレタノデアル(アウグスブルク信仰告白一三条)。聖礼典トハ、主ナル神ガ……ワレワレノ良心ニ、ワレワレニ対スルゴ自身ノイツクシミノ約束ヲ封印シ給ウコトノ、外的ナシルシデアル(カルヴァン)。聖礼典ハ、神ニヨッテ制定サレタ聖ニシテ厳カナ行為――ソレニヨッテ、神ガ、人間ノ奉仕ヲ媒介ニシツツ、目ニ見エル、外面的ナ要素ノモトデ定マッタ言葉ヲ通シテ天的ナヨキ事物ヲ管理スル聖ニシテ厳カナ行為――デアル。ソレハ、ソレニアズカリ信ジル一人一人ノモノニ、無報酬デ与エラレル福音ニ固有ナ罪ノ赦シニツイテノ約束――結ビツケラレ、シルシデ保証サレタ約束――ヲ提供スルタメデアル(ヨハン・ゲルハルト)。これらすべての定義で、明らかに言葉の特別な狭い意味での聖礼典が意味されていると同時に、同様によくそもそも教会の客観的な側面が意味されていると見ることができる。例えば人は、カルヴァンが、聖礼典の一般的な意味を具象的に、聖礼典は、神的な恵みの証印、あるいは画像、あるいは鏡像であり、それは、信仰を支える柱、あるいは神の言葉について確信するようになる習練である、と述べたことによく注意しなければならない。これらの譬え的言い方は、啓示に属していて、客観的な啓示を、人間的な主体〔主観〕に客観的に取り次ぐ<しるし>を与えるというさらに包括的な概念に全くよく適合する〔ちょうど人間的主観に贈り与えられた「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的に主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられるように〕。このことは、決して偶然の一致ではなく、必然的な一致である〔聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性としての、イエス・キリストにおける「神の自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)は、「聖礼典的な実在」であると呼ばれるように〕。このことは、次の二つの側から示される」。
(一)「後代の狭い意味での聖礼典の概念は、明らかにあのより広い意味での聖礼典の概念の内部での、したがってわれわれがここで取り組んでいる神的な<しるし>を与えるという一般的な概念の内部での特別な何かについて言おうとしている。われわれは、引用された定義の中で、外的な表象、要素、<目ニ見エルシルシ>、聖ナル行為という概念が強調されているのを見た。それらの概念でもって当然のことながら、特に〔「教会の宣教」における「聖礼典」としての〕洗礼と聖晩餐ことが指し示されている。しかしながら同時に、それらの概念でもって、常にまた、それとしての神的な<しるし>を与えることそのものに特有な特徴が強調されている。<目に見える>しるしということは、狭い意味での聖礼典〔洗礼と聖晩餐〕のことを意味している。その際には、<目でもって>知覚することができる象徴および行為が問題である限り、狭い意味での聖礼典を意味している。しかし、そこでは、人間的な<言葉>という要素が除外されている。しかし、アウグスティヌス自身は、語られた人間の言葉あるいは書かれた人間の言葉を、<しるし>の中に数え入れている。言葉ハ<シルシ>以外ノ何モノデモナイ。ここで決定的なのは、<目ニ見エル>という概念そのものではなく、むしろ知覚シ得ルという大概念、すなわち<耳デ聞キ得ル>ということも含まれている大概念である。実際目ニ見エル人間、すなわち語る人間あるいは書物なしには、耳デ聞コエ得ル<シルシ>もない。『言葉はまた、人が耳でもって把握し、目でもって見ることができる外的な事物である』(ルター)。目ニ見エルということは、目ニ見エル教会という概念の場合と正確に同じように、<しるし>は、その本性からしてまた、われわれの世界に、われわれの観察と経験の領域に属しているということを言っている。人は、ちょうどそのほかに実在と出会うのと同じように、<しるし>と出会うことができる。そのような目ニ見エル<シルシ>として、聖礼典〔洗礼と聖晩餐〕は、象徴、しかも<外的な>象徴、換言すれば〔「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会がそれに負うている〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕キリストにあっての客観的な啓示に基づいている教会が属し合っていること、いや教会が一つであることの譲り渡すことのできない<しるし>である。この〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会の一つであることは、確かに隠された目に見えない単一性であるが、しかしまた、〔目ニ見エル<シルシ>としての聖礼典の執行される場所として、〕公の目に見える単一性でもある。このこともキリストからしてであり、その限り、教会の中にはまた〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕キリストによって制定された象徴〔聖礼典(洗礼と聖餐)〕が外的な象徴として存在する。狭い意味での聖礼典においては、まさに<要素>、水〔自然〕、パン、ぶどう酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕が問題であるということは、聖礼典が一般的な神的な<しるし>を与えるということがもつほかの要素と比べて全く立ち勝っている優越性を語っているように見えるが、しかし、ただそのように見えるだけである。何故ならば、そこで相対立するものとして問題となり得る人間の精神的―歴史的―倫理的存在は、<要素>の領域の中へと、肉体性の世界の中へと浸されながら、最後的には<自然的なもの>との切り離すことのできない単一性の中で存在しているからである。最後に聖礼典が強調されつつ聖ナル<行為>と呼ばれ、その際当然のことながら教会的な語りとしての説教と対立して、教会的な行為としての洗礼および聖晩餐としての性格が考えられている時、確かにすべての教会的な語りが行い〔行為〕ではないが、しかし、教会的な語りは少なくとも同様にまた行為でもあるということである。聖礼典は、聖ナル事柄、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕キリストにあっての神的恵みの<しるし>、すなわち〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕キリストによって制定された<しるし>であり、その目的は、人間の聖化あるいは義認であり、それの機能は、〔「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリストにおける「啓示の出来事」としての〕客観的な出来事として起こり〔「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である〕特定の人びとの奉仕を通して語り告げられた和解が与えられること、証印サレルコト(上に書かれていることが、その下に捺印された印を通して確認されること)であるということは、明らかに説教に相対して特に聖礼典が持っている特質に属していることではなく、ただそれに聖礼典も属しているところの最も一般的な関連を強調している。目ニ見エル<シルシ>としての、外的な象徴としての、要素の中での行為の中での<しるし>として、聖礼典は、明らかに狭い意味での言葉が語ることができるのと比べてもっと雄弁に、神的な<しるし>を与えることの意味である人間ノ義認あるいは聖化が、一つの理念に基づいているのではなく、むしろ実在に、<出来事>に、しかもただ単に歴史の中で強引に自己主張してゆく哲学的な教説あるいは一般の人びとの確信が持つことができるような意味を持つだけでなく、同時に精神的および肉体的なものとして、肉体的なものと精神的なものの対立に対してはるかに優越し給う創造主の行為として示された出来事〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である<子>としてのイエス・キリスト自身は、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――であるイエス・キリストの父、この「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した子である」からである〕に基づいているということを語っている。さらに言い換えれば、聖礼典は、われわれの歴史の中に創造主が介入し給う出来事として、創造主の現臨を通してわれわれの歴史が繰り広げられてゆく出来事として示された出来事に基づいているということである〔「創造された世界における神の愛とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛との間には差異がある。イエス・キリストの事実の中における神の愛は、まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である。すなわち、和解ないし啓示は、創造の継続や創造の完成ではない。この意味は、和解ないし啓示は、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〙イエス・キリストの新しい神の業である、ということである。それは、神的な愛の力、和解の力である。イエス・キリストは、和解主として、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる〙創造主のあとに続いて、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〙第二の神的行為を遂行したのである。この神の存在の仕方〘様態、性質・働き・業・行為・行動〙の差異性における創造と和解の順序に、キリスト論的に、父と子の順序、父〘「啓示者」・「言葉の語り手」としてのイエス・キリストの父〙と子〘「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)としての子としてのイエス・キリスト自身〙の順序が対応しており、和解主としての子としてのイエス・キリストは、創造主としてのイエス・キリストの父に先行することはできないのである。しかし、この順序の差異性は、〘「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「起源的な第一の存在の仕方」と「第二の存在の仕方」における〙その存在の仕方における父と子の順序の差異性であって、父と子は共に〘「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として〙一人の同一なる神ご自身である。〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる〙創造が無からの創造であるように、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる〙和解は死人の甦りである。われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている。創造は契約の外的根拠として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である恵みの契約の歴史のための場所設定である。また、恵みの契約の歴史は創造の内的根拠として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である。それは、父なる神と子なる神と〘「父ト子ヨリ出ズル御霊」、すなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての〙聖霊なる神の三一論的な神ご自身の自己啓示〘神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定〙である〕。このような訳で、すべての神的な<しるし>を与えることの意味である人間ノ義認あるいは聖化は、人がすべての理念、教説あるいは確信を問題化し括弧の中に入れることができるように、問題化したり括弧の中に入れたりすることはできないのである。何故ならば、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)である〕キリストにあっての神の現臨に関しては、天と地の創造者である全能なる神の行為に関しては、徹頭徹尾何も解釈すべきものはないからである。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」として「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」として「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕言葉は肉となった(ヨハネ一・一四)、もちろん〔「啓示の<しるし>」の<しるし>としての「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)における〕説教もまたそのことを語ることができるし語るべきである。しかし、聖礼典は、説教ができないような仕方で、肉および<なった>という言葉を強調する。したがって、それらの言葉は、もしも神的な<しるし>を与えることが教会の<客観的な>側面として理解され取り扱われるべきであるならば、すなわち事実包括的な仕方で、どこからしても洞察することができず、またどこからしても論難することができない仕方であらかじめ所与として与えられれている姿の中で、〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会の<客観的な>側面として理解され取り扱われるべきであるならば、できる限り強調して理解されなければならない。聖礼典でもって神的な<しるし>を与えるということが含みを持っているこの性質が強調されるということは、説教と並んでの聖礼典の特別な点であり、〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会へと集められた神の民の生命活動全体の中で聖礼典が持っている特別な点である。聖礼典、すなわち洗礼や聖晩餐について知っていない、それとも根本においてどう扱ってよいか分からない……そのような神学は、〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会の中で〔「第三の形態の神の言葉」である「教会に宣教を義務づけている」「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である〕預言者的および使徒的言葉が占めている重要な地位について正しいことを何も知らず、また〔「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の〕教義の威厳について、例えばニケアの決定、あるいは宗教改革の決定が含みを持っている〔「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕神学的な重要な意味について正しく何も知らず、また説教を教会の礼拝式における中心的な部分として評価することができないということである。そのような神学は、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているが故に、〕啓示そのものが、包括的な論難され得ない仕方で与えられていることを知らないのである。〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教(説教と聖礼典)における一つの「教会的な補助的奉仕」としての〕神学は、〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会の中で常に洗礼が施され、聖晩餐が祝われなければならないという全く単純な事実を通して、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みにおける「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会(すべての成員)、神の子供たちの生としての〕啓示の主観的実在は、それもまた啓示の実在であることが確かである限り、客観的な側面を持っており、われわれの思惟は、それがそのようにして(決してそれと別様ではなく)内容に満ちた思惟、そこで認識されるべき対象と関わっている思惟であるために、いつもその客観的な側面から由来してこなければならないということである」。
(二)また、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての「啓示が、われわれのところに来るところの神的な<しるし>を与えることは、その全体性の中で、聖礼典〔洗礼と聖晩餐〕と呼ばれることもできる〔ちょうど「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性)の関係と構造(秩序性)は、「聖礼典的な実在」と呼ばれるように〕。何故ならば、それは、その全体性の中で、常にまた目ニ見エル<シルシ>、外的象徴、自然の領域の中での・人間によって遂行された行為の中での<しるし>であるからである。聖書的な意味でのすべての<しるし>を与えること・すべての証人であることの原型である洗礼者ヨハネ〔人間〕は、彼が自分のことを水〔自然〕で洗礼を施す者と言い表している時、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間〕キリストとの区別およびキリストとの関係の中で、彼自身について語られるべきすべてのことを語っている。そのようにしてまた、ヨハネ三・五、エペソ五・二六以下、テトス三・五において、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である、<客観的な>「存在的な<必然性>」としての<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)における〕聖霊の内的な働きに対して、単純に直接的に、まさに『洗礼の洗い』が対置されている時、またわれわれが、ヨハネ六・五二-五八において、永遠の生命へと至る食し飲むことに対して、全く特定の〔自然な〕からだ的な食し飲むことが対応しており対応しなければならないことを知らされる時、そのことは、全く秩序に適ったことである。この場合、確かによく考慮されるべきこと――すなわち、聖礼典〔洗礼と聖晩餐〕は、そこで人間が受け取らなければならないところの<しるし>として、客観的な証言として現れている孤立の中で、当然のことながら全体ヲ代表スルモノとして把握されなければならないということ――をよく考慮に入れさえするならば、それによって何か途方もないことをしていることには決してならないであろう。そのような具合に啓示は、具体的に〔自然としての〕からだ的に、歴史の中での創造的な出来事として、われわれのところに来るし、そのような具合に受け取られ取り上げられることを欲している。言い換えれば、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての〕啓示は、その客観的な恵みの性格を特別に強調しつつ、聖礼典〔洗礼と聖晩餐〕の中で表示されているそういう仕方で、受け取られ取り上げられることを欲している。そこでは、ただ洗礼の水〔自然〕と聖晩餐のパンとぶどう酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕が問題であるのではない。ここでも、ヨハネ六・六三『命を与えるものは霊である。〔自然としての〕肉は何の役にも立たない』がよく考慮されなければならない。誰か、洗礼を受けることなしに、神の啓示を受け救われる者がいるだろうかなどという問いは、子供っぽい問いである。聖礼典の執行が、絶対的な機械的な意味で、救いにとって必要であり、啓示にとって必然であるということについては、もしもそのようなことになれば、われわれにとって有効な、われわれが神的な<しるし>を与えることに拘束されているということから、神ご自身が拘束されているということになってしまうが故に、決して語ることができないし、またこれまで教会の中でそのようなことについて真剣に語られたことはなかった。しかし、それだからと言って、われわれに対して、洗礼が確かに命じられているという事実には何の関わりもない。確かに洗礼の水〔自然〕および聖晩餐のパンとぶどう酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕においては、具体的な〔自然としての〕からだ的な、創造的な―出来事的な神の支配の<しるし>を打ち立て認識することが大事である。〔「第二の形態の神の言葉」〔「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」である〕預言者および使徒たちの権威は、そして彼らを通して与えられる〔神性を内在的本質とするところその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」としての「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕神の受肉した言葉の恵みは、まさに洗礼がわれわれに関して語られた客観的な証しとして、われわれのキリスト教生活のはじめのところに立っているような仕方で、〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕キリスト教会のはじめのところに、したがってまた〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた〕神の子供としてのわれわれの現実存在のはじめのところに立っている。われわれが聖晩餐の中でパン〔人間によって加工された、人間化された自然〕を食せられ、ぶどう酒〔人間によって加工された、人間化された自然〕を飲ませられるような仕方で、〔「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である〕預言者および使徒たちの言葉からして、換言すれば彼らの証言に基づく〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の〕宣教からして、さらにまたその宣教を通して、〔「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)としての〕神の言葉の恵みからして、生きるのである。〔「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である〕預言者および使徒たちの言葉によって媒介された〔「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)としての〕み言葉を通して生きるこの生命の秩序と保持を<しるし>をもって表示すべく、われわれは洗礼および聖晩餐に拘束されている。何故ならば、この生命、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた教会(すべての成員)、〕神の子供たちの生活から、<この>生命の秩序、<この>生命の保持は切り離されることができないからである。それが、われわれの〔神性を内在的本質とするところその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕主イエス・キリストの恵みからしての生であるが故に、われわれの主イエス・キリストの恵みからしての生である限り、それは、ただこの生である。しかし、それは、ただ秩序および保持に関する事情からちょうど聖礼典〔洗礼と聖餐〕を通して表示されているような具合であることによって、この生である。したがって、この意味で、人は、全く真剣に、聖礼典〔洗礼と聖餐〕を、欠かすことのできない『恵みの手段』であると言わなければならない。人は、このことを正しく理解するためには、その概念の中で特に『恵み』という言葉を強調しなければならない。その際、人は、〔「聖礼典的な実在」と呼ばれる「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である〕教会はその客観的な側面から言えば聖礼典的である。言い換えれば、洗礼および聖晩餐の類比に従って理解されなければならないという命題を立てることを妨げてはならない、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた教会(すべての成員)、神の子供たちの生としての〕<啓示の主観的実在の場所>は、<聖礼典的な場所である>。このことは、ローマ・カトリック的なエクス・オプス・オペラト(なされた業から)とは何ら関りがないし、またましてや異教的な『魔術』とは何ら関りがない。聖礼典の場所とは、そこで〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた〕人間が、彼に対してすでに施された洗礼から彼に対して供与されるべき聖晩餐へと通じる道の上にいるとして理解しなければならない場所、換言すればそこで彼は信仰に来るために、信仰ではじめるところの、信仰から信仰に至らせる(ローマ一・一七)場所であるということである〔信仰から信仰に至らせる場所は、次のような場所である――「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられるのであるが、その時その信仰を贈り与えられた人間が、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」(この<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」は、その中の主観的側面としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された」人間の理性性としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」を包括している)という枠組みの中での<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である聖書を、「聖書への絶対的信頼」に基づいて、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、「聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で」、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの「勝利の福音」を尋ね求める「神への愛」(すなわち、教会の宣教における一つの「<教会的な>補助的奉仕」として、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性における、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人びとが純粋な教えとしてのキリストの「勝利の福音」を<現実的に所有することができるためになす>キリストの「勝利の福音」の告白・証し・宣べ伝えである。したがって、それは、一般倫理学の問題ではない、木を見て森を見ないという仕方での形而上学的な一面的な「隣人愛」の問題ではない、「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」からする「隣人愛」の問題ではない、過渡的相対的部分的な社会的な慈善活動の問題ではない、過渡的相対的部分的な政治的な平和運動の問題ではない、『福音と律法』によれば「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」ことではない、「盲目的に仕事へと没頭する」ことではない、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことではない、「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」ことではない、時流のエコロジーに邁進することではない⦅何故ならば、資本主義の拡大・高度化、科学・技術の発達、生活の利便性の向上等は、それが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれ、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果(経済的な社会構成の発展において、人類が不可避的に蓄積させてきた成果)であるからである。したがって、例えば技術的な問題は技術的に解決すべき問題である。したがってまた、それは、エコロジー運動や政治的な政策等によって遅延させることはできても停滞させることはできない――マルクス『資本論』「第1版の序文」には、「私の立場は、経済的な社会構成の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」と述べられている。したがってまた、例えば現実的な社会の中で具体的にある資質、職業、生活、喜怒哀楽の感情、思想、信条、意志、構想をもって生き生活する個としての資本家が問題ではなく、制度としての資本家、システムとしての資本家が問題である⦆、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」ことではない。したがって、それらのただ往相的観点からだけする過渡的相対的部分的な副次的な言明を、聖書の中で証しされているキリストの「勝利の福音」の宣教であると誤解して、すなわち木を見て森を見ないという仕方で形而上学的に一面化して、部分のそのまた部分を全体化して、それらを主要な言明とすることは全くの誤謬である、換言すれば還相的な観点を持たないところのただ一方通行的な往相的な観点だけからするそれらの主張は全くの誤謬である、それ故にそれらの主張は、「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとする」⦅吉本隆明『カール・マルクス』⦆思惟と語りである)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことを通して教会の宣教(説教と聖礼典)へと向かう。何故ならば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えらた者は、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」が存在するし「神の言葉がある」ところの、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間」――すなわち、「第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性」においてある「啓示の<しるし>」)である聖書の中で証しされている「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、換言すれば<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>に感謝をもって信頼し固着し固執するからである〕。この道の上で、人間は、自分のことを啓示の受領者として正しく理解する。まさにこの場所の中にこそ、〔「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教における一つの「教会的な補助的奉仕」としての〕神学は、自分の始まりと目標を尋ね求め、またその場所の法則にしたがって神学の方法は決められなければならないのである」。このことを認識し自覚する時、われわれは、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」ということを、神学も類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使しての知的営為ではあるが、しかし、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ということを認識し自覚する、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「特別啓示」、「啓示の真理」、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「啓示神学」に立脚する(『バルトとの対話』)。
文責:豊田忠義
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