1の1.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ 十六節 神のための人間の自由 一 聖霊、啓示の主観的実在』について(その1)
【なお、引用個所の〔〕書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である】
「十六節 神のための人間の自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
神の啓示は、聖書に従えば、神の聖霊がわれわれを、神の言葉を認識するよう照らし出すことの中で、出来事として起こる。聖霊の注ぎは、神の啓示である。神の子供であり、神をその啓示の中で認識し、愛し、賛美するわれわれの自由は、この出来事の実在から成り立っている。
この定式は、次のように理解することができる。
<神性を内在的本質とする>ところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(換言すれば、「イエス・キリスト自身よって唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」である「聖書の中で証されている神の啓示は」、<神性を内在的本質とする>ところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「神の聖霊がわれわれを」、<神性を内在的本質とする>ところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>を認識するよう照らし出すことの中で、出来事として起こる〔言い換えれば、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)――すなわち、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊であ」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」(この「聖霊によって更新された人間の理性性」は、『教義学要綱』によれば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、「聖霊は、人間精神と同一ではない、人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」というところのそれである)という枠組みの中で、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える「啓示と信仰の出来事」として起こる〕。「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」における<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」に関わる「聖霊の注ぎは、神の啓示である〔換言すれば、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」〕」。言い換えれば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘儀性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とするところの「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」のその<神性を内在的本質とする>ところの、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)――すなわち、「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての「イエス・キリストの父」、「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての「子としてのイエス・キリスト自身」、「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2-14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊」、この父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中での神の「第二の存在の仕方」における「神の啓示」は、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みにおける「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の中で照らし出される。そのような仕方で「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えられた「神の子供であり〔すなわち、「イエスが聖霊の特別な働きとして約束されたものは、慰め主としての霊と真理の御霊である。この聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「聖霊の注ぎ」によって〕聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は、キリストにある自由を意味している。この聖霊が、教会をみ言葉の奉仕へと向かわせるのである。また聖霊はみ子の霊であり、それ故子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、〘「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による〙聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる。そしてまた、和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たちは、神の子供である」という神の子供であり〕、神を〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕その啓示の中で認識し〔何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求するからである〕、愛し〔詳しく言えば、神の子供たち、「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学」は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「聖書」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下のその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「聖書の中で証されている純粋な教え」としてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める<神への愛>(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)において愛し〕、賛美する〔すなわち、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの、それ故に平和そのものであるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すというところで賛美する、それ故に全世界としての「教会自身と世のすべての人々が聖書の中で証されている純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え」の奉仕の務めをなしていくという仕方で賛美する、それ故にまた「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」「特別的な神学的倫理学」の問題を認識し自覚して神を賛美する。したがって、「一般的倫理学」の問題において賛美することではない、「自己満足と自己欺瞞に満ちた市民的常識や市民的観点」からして賛美することではない、それ故に「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題に包括された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の<究極的包括的総体的永遠的な>救済そのもの、それ故に平和そのものであるイエス・キリストに根拠づけられた「正しい行為を問う」「特別的な神学的倫理学」の問題を認識し自覚していないところの、ただ単に形而上学的な、一面的な、抽象的な、木を見て森を見ないという仕方での、「自分が身近に接している食物の飢えで困窮している一人の人や一部の人を施しや奉仕によって救済しようとしても思うように助けおおせることはきわめて稀なことである」ということを認識し自覚していないところの、また煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊している一人の人や一部の人をそういう人に寄り添うという仕方で救済しようとしても「思うように助けおおせることはきわめて稀なことである」ということを認識し自覚していないところの、ただ単に一面的な<緊急的相対的部分的過渡的な>救済および平和の問題を全体化しただけの「自己満足と自己欺瞞に満ちた市民的常識や市民的観点」からする、一般的倫理学の問題からする慈善や奉仕によって賛美することではない〕われわれの自由は、その出来事の実在から成り立っている〔換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」(「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて存在する教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo(「キリスト教に固有な」類)としての「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」の時間的な連続性、すなわち「キリスト教に固有な」歴史性、「キリスト教に固有な」類の時間累積の出来事の実在から成り立っている〕」。
一 聖霊、啓示の主観的実在
「われわれは、空虚な場の中で何かある一つの啓示を念頭に置いてその問いを立てたのではなく、聖書の中で証された〔<客観的な>〕啓示を念頭においてその問いを立てたのであるあるから、われわれが、ご自分を啓示し給う神を問う時、いわば有無を言わさぬ仕方で、同時にその中で神が神としてご自分を啓示される出来事を問う<第二の問い>がわれわれに迫ってきた」。「しかし、同時にまたその出来事〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)〕のわれわれ自身の方に向けられた側面〔その<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)〕、すなわちわれわれに対して神が〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」における聖霊自身の業である〕<啓示されてあること>〔<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕を問う<第三の問い>もわれわれに迫ってきた」。このような訳で、「啓示の主体を問う<第一の問い>に対する答えは、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」における、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」において〕自ら<啓示者>であり、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」における、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」において〕自ら<啓示の行為>であり、同時にまた〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」における、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」において〕自ら<啓示されてあること>であり給うところの神〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」〕についての三重の認識へと展開された。言い換えれば、その一つであることと三つであること、三つであることと一つであることの中での父・子・聖霊についての教説の中で展開された〔まさに神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)であるイエス・キリストは、<先ず以て>「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいてわれわれ人間は、「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではないし、「神についての聖書的な証言」は、その「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)における「神の自由の概念の積極的側面」を、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で見ている)、<それからまた>「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)におけるところの、詳しく言えば神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の<語り手>」・「創造者」としての<イエス・キリストの父>、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の<言葉>」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての<子としてのイエス・キリスト自身>、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊」、この父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神>(換言すれば、「神の顕現」、「<秘義>の啓示」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<神の>言葉」、「<永遠の>言葉」、それ故に神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「三位一体の神」としての<神の>子あるいは<神の>言葉であるところの、その<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」であるから、「<神の>言葉であった、<永遠の>言葉であった」)にして<まことの人間>(換言すれば、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、その<内在的本質>である神性の受肉ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)である(それ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「われわれのための神」における「神の自由の概念の消極的側面」を、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で見ている)。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」――すなわち、「神の本質を問う問い」を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」――すなわち、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中でなす「神の存在を問う問い」を要求するのである。バルトは、『神の人間性』では、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において〕<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、まことの人間〕もわれわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は〕、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている。「ヨハネ一・一四の〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」である〕「神の<子>あるいは神の<言葉>は肉〔、人間〕となって、わたしたちの間に宿られたは、いささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「三位一体の神」としての〕<神の永遠のみ子>である〔何故ならば、この「み子」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>が、<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるし、またその「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からである〕」。神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>が肉〔、人間〕となったということは、……人間に対して人間として帰せられるべきところのすべてのこと、誕生と死の間に挟まれている時間〔すなわち、人間の個の時間性、人間の個の時間累積、自己史、個体史〕の中でからだと精神が個人的に一回的に一つであることとしての被造物的な現実存在ということが、いまやまた神の永遠のみ子〔何故ならば、「み子」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>が、<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからである〕についても言われなければならないということの中で、そしてそういわれなければならない仕方で、〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉>がまことの実在の人間となり〘換言すれば、その<内在的本質>である「神性の受肉」ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉」において、実在の「この肉、人間」となり、すなわち「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」となり〙〕、またわれわれのものであるような同じ人間的本質と存在、同じ人間的性質と形態、同じ歴史性〔人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史〕にあずかるようになったということであり、〔そのような仕方で、〕われわれに対する神の啓示は出来事として起こるということである」。この「われわれに対するイエス・キリストにおける神の啓示の出来事は、われわれだけでわれわれの時間〔われわれ人間の個の時間性、人間の個の時間累積、自己史、個体史および人間の類の時間性、その人間の類(それが「材料、資本、生産力」であれ、「一対の性、一対の性の共同性としての家族」であれ、「言語」であれ、個体的自己の成果の世代的総和)の時間累積、人類史、世界史、歴史〕を持っていた時に生起したわれわれのための<神の時間>、<イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間>である」。「人間としての、この神の永遠のみ子の存在について奇蹟的な仕方で生起したとして証言されているところのこと、換言すればその中心的なこととして甦りの歴史〔Geschichte〕、啓示そのものの本来的な行為としての四十日ノ福音〔すなわち、「キリスト復活の四十日」(使徒行伝一・三)、「キリスト復活四十日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの――「新約聖書の証人たちは、このキリスト復活の四十日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を想起する時、光を得たのである。彼らは甦えりの証人である」〕、さらにそれに付け加えて、イエス・キリストの歴史的な現実存在〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「啓示の<秘義>」としての「まことの神にしてまことの人間」という「キリストの両性」を言い表しているイエスのはじめにおける<処女からの誕生の出来事>という「啓示の<秘義>の<しるし>」〕、また彼の歴史的な現実存在の終わりにおける<空の墓>という秘義の<啓示>の<しるし>〔換言すれば、キリストの甦りの出来事、キリストの復活の出来事という秘義の<啓示>を言い表している<空の墓>という秘義の<啓示>の<しるし>〕、それに加えて、すでにこの始めと終わりの間で神の国を、すなわち甦りの歴史を宣べ伝えている<しるし>と奇蹟、それらすべてのことは、福音記者と使徒の意味では、〔「真に罪なき、従順なお方」である〕まことの人間イエス・キリストが問題である、われわれ自身と同じような〔しかし、われわれとは違って、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順な」〕一人の人間が問題であることの中で、その意味とその力を持っている。ここで、実際に〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」である神の<子>あるいは神の<言葉>が現にその<受肉>において〕人間となったし人間であった、それであるからまさにこの実在の人間の生こそが、神のあのもろもろの行為の対象であり舞台であった、世に来た啓示の光であったということが、啓示を啓示たらしめ、奇蹟を奇蹟たらしめる」〕。まさに三位一体を念頭においてこそ、<第二の問い>〔すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みにおける、<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を問う第二の問い〕、神からしての啓示の実在を問う問いが、さらに独立的に立てられ答えなければなかったのである。このことは、われわれの背後にあるキリスト論を扱った部分、言葉の受肉についての教説の中で起こった。ここでまた、<第三の問い>〔すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みにおける、聖霊自身の業である神が「啓示されてあること」(「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)、すなわち「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を問う<第三の問い>〕をわれわれの考察の中心点に置き、当然のことながら、われわれの三位一体論的な考察と共に、それからまたキリスト論的考察ともできる限り厳密に関連させつつ独立的に答えるということは、われわれのなすべき務めである」。
「われわれは、その<第三の問い>〔すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みにおける、聖霊自身の業である神が「啓示されてあること」(「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)、すなわち「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を問う<第三の問題>〕の特別な意味を、特に<第二の問い>〔すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みにおける、<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を問う第二の問い〕との関係の中で明らかにする」。
「教会の客観的な信仰告白と教義Credoである三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書また〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、神的愛に基づく父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義Credoである三位一体論の根拠であり、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である。したがってまた、教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである」――この「三位一体論から、われわれ人間にとって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――であるイエス・キリストの<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における〕啓示が、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊」自身の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)としての〕<啓示されてあること>〔<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」〕にどのように来るのかという問いに対して、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕唯一のまことの神にして主なる方ご自身が、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての〕聖霊のその『位格』〔様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質〕の中で〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な「存在的な<必然性>」>としての<客観的な>イエス・キリストの「<啓示の出来事>の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)の中で〕、われわれにとって神が<啓示されてあること>〔詳しく言えば、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)〕であり給うという答え以外の答えは存在し得ないということである」。「われわれは、われわれに対して、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二形態の神の言葉」である〕聖書によって明確な<答え>があらかじめ与えられているところの、聖書的な答えを認識し理解することを、それと共に〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みの中における、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二形態の神の言葉」である「聖書」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕)としての<教会>〕教義学の問題〔すなわち、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)――この<教会>教義学の問題は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわち「正しい行為を問う特別的な神学的倫理学」の問題を包括している〕である正しい教会的な認識をなしていくために、ただ単に<問うことが許される>というだけでなく、<問うべきである>しまた<問わなければならない>。ここで、われわれに命じられている問いは、〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間、イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」としての〕神ご自身の現臨としての啓示は、ただ単に神からしての出来事であるだけでなく、同時にまた人間に向かっての出来事である限り、われわれ人間は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕<啓示>の中で神がわれわれに対して〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」における〕<啓示されてあること>ができるために、どの程度まで神に向かって自由であることができるのか、神が人間に対して〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」における〕<啓示されてあること>が、その限り〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神の<啓示>に対する人間の受容性が存在するのかという問いである。ここで問われていることを、われわれは、『啓示の主観的実在』と呼ぶ〔すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>の枠組みの中における<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を『啓示の主観的実在』と呼ぶ〕」。このことでもって意味されていることは、聖書の中ですでに与えられている答え、『聖霊の注ぎ』のことである〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」と<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」として「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」に基づいて「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、『啓示の主観的実在』でもって意味されていることは、聖書の中ですでに与えられている答え、『聖霊の注ぎ』のことである〕」。
「われわれは、『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕 十三節』で、神の啓示が人間の身に及ぶことは、どのように<神の自由>の中で実在であるかと問うたが、ここ『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ 十六節』では、神の啓示が人間の身に関わってくるのは、どのような〔神のための〕<人間の自由>の中で実在であるかと問う」。
「教会の客観的な信仰告白と教義Credoである三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである。〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書また〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、神的愛に基づく父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠であり、この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である。したがってまた、教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない」。このような訳で「最後的に決定的には、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における〕啓示の概念を問う問の答えである三位一体論〔「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo〕の源泉および標準である〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書からして、神をその啓示の中で認識し〔何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求するからである〕、愛し〔詳しく言えば、神の子供たち、「第三の形態の神の言葉」である「教会の宣教」およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学」は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「聖書」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下のその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「聖書の中で証されている純粋な教え」としてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める<神への愛>(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)において愛し〕、賛美する〔すなわち、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの、それ故に平和そのものであるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すというところで賛美する、それ故に全世界としての「教会自身と世のすべての人々が聖書の中で証されている純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え」の奉仕の務めをなしていくという仕方で賛美する、それ故にまた「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」「特別的な神学的倫理学」の問題を認識し自覚して神を賛美する。したがって、「一般的倫理学」の問題において賛美することではない、「自己満足と自己欺瞞に満ちた市民的常識や市民的観点」からして賛美することではない、それ故に「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の<究極的包括的総体的永遠的な>救済そのもの、それ故に平和そのものであるイエス・キリストに根拠づけられた「正しい行為を問う」「特別的な神学的倫理学」の問題を認識し自覚していないところの、ただ単に「自分が身近に接している食物の飢えで困窮している一人の人や一部の人を施しや奉仕によって救済しようとしても思うように助けおおせることはきわめて稀なことである」ということを認識し自覚していないところの、また煩悩や生老病死等々で困窮し疲弊している一人の人や一部の人に寄り添うという仕方で救済しようとしても「思うように助けおおせることはきわめて稀なことである」ということを認識し自覚していないところの、ただ単に形而上学的な、一面的な、抽象的な、木を見て森を見ないという仕方で<緊急的相対的部分的過渡的な>救済の問題を全体化しただけの一般的倫理学の問題からする、「自己満足と自己欺瞞に満ちた市民的常識や市民的観点」からする慈善や奉仕によって賛美することではない(もちろん、それは、人間の意味的な行為として、人間的な意味があることであるから、それを否定するということでは決してないが)〕われわれの自由は、その出来事の実在から成り立っている〔すなわち、聖霊自身の業である「啓示されてあること」(「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、ある歴史歴現存性のその時代と現実に強いられて存在する「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo(「キリスト教に固有な」類)の時間累積(「キリスト教に固有な」歴史性)の出来事の実在から成り立っている〕」――この「神に向かって自由である神のための人間の自由は、ただ神によってその啓示の行為の中で造り出され、人間に与えられた自由であることができるだけであって、それは、最後的にはまたただ神ご自身の自由であることができるだけであるということである〔何故ならば、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるその「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、神に向かって自由である神のための人間の自由の源泉としての「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、徹頭徹尾、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる賜物であるからである。詳しく言えば、神に向かって自由である神のための人間の自由は、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる賜物であるからである〕」。「神の啓示が人間の身に関わってくるのは、どのような〔神に向かって自由である神のための〕<人間の自由>の中で実在であるかという問いに対して、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕聖書は、この点においても、人間からして実在となることについては、決して語っていない。聖書は、〔生来的な自然的な〕もともと人間に固有である自由を語っていない。人間の行為について、ただそれが〔人間の行為の中にではなく、〕神の行為の中にその可能性を持つ限り語っている〔ちょうど、「神に向かって自由である神のための人間の自由」の源泉である「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられるように、このことを前提条件として、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」に基づいた「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところの「神に向かって自由である神のための人間の自由」という「人間の行為」の可能性があるように〕」。このような訳で、「神の啓示が人間に関わってくること、それであるから<神に向かって自由である神のための人間の自由>も、われわれが聖書の中ですでに与えられている答えを堅く取って離すまいとするならば、人間からして説明することはできない」。「ここで説明しなければならないことは、どのように信仰および服従のような何かが存在するか、換言すれば聖書の意味で、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての〕神を信じ、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神語り給う故に、神語り給うことを聞く」という仕方で〕神に聞き従う<神に向かって自由である神のための人間の自由>における神の業と贈り物はどのようであるのかということである。われわれがいま『啓示の主観的実在』について語る時、『主観的実在』という概念は、以上述べた意味で、以上述べた特殊性の中で用いられていることが理解されなければならない」。
そのような訳で、「われわれは、『第二の問い』〔「神の啓示に相対してのまことの了解質問」、すなわち<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の問題〕、人間のそのような<神に向かって自由である神のための人間の自由>は、どのようにして<可能となるのか>というふうには問わないで、先ず第一に『第一の問い』〔「神の啓示に相対してのまことの事実質問」、すなわち「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)の問題〕、『人間のそのような自由は〔<神に向かって自由である神のための人間の自由>〕は、どのように<実在となるのか>』と問う。(中略)〔「第一の問い」としての〕啓示の実在を問う問いがこの脈絡においてもあくまで<先行>しなければならず、〔「第二の問い」としての〕啓示の主観的可能性を問う問いは、その<後に続かなければならない>」。「可能性から実在の道に進むのではなく、実在から可能性への道を進まなければならない」。したがって、「イエス・キリストにおける啓示の出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを、われわれは、「神のその都度の恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」とその主観的側面である<主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて贈り与えられる、すなわち「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての信仰の類比を通して自己認識・自己理解・自己規定できるように、またその信仰の類比を通して、われわれは、「神の選びをイエス・キリストの復活において認識し〔信仰し〕、神の放棄をイエス・キリストの十字架において認識する〔信仰する〕ことができるように、またその信仰の類比を通して、われわれは、「神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、またそのような人間の世を自己認識・自己理解・自己規定することができるように、「自分自身に絶望している人間の謎の側から、信仰の確実性の中での謎の解決の側へと進むのではなく、信仰の確実性の中での謎の解決から、自分自身に絶望している人間の謎へと進まなければならない」、「『ローマ・カトリック的に礼典的に』洗礼を恵みの認識根拠として言い表すのではなく、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識として神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に関わる〕聖霊によるまことの『保証』に基づいて選びの確実性について語らなければならない」、「抽象的ニ啓示の主観的可能性のもろもろの条件を問うことでもってはじめるのではなく、具体的ニ〔<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」である「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神の〕啓示の実在を問うことでもってはじめなければならない〔何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求するからである。したがって、啓示の主観的可能性も、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面である<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で問わなければならない(何故ならば、『福音主義神学入門』に引き寄せて言えば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、生来的な自然的な「『自分の理性や力〘感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的な修行等々〙によっては』全く信じることができない」からである)〕」。われわれは、人間の自由な内面の無限性、類的機能を持つ人間の自己意識・理性・思惟という人間的な「すべての精神的―内在的な確実さについて語るのではなく、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)における〕徹頭徹尾優越した恵みと聖霊の真理について語らなければならない、それであるからまことの『保証』について語らなければならない」。「信仰の確実性、すなわち神の啓示が人間の身に関わるということ、いかに人間の身に関わるということについての知識は、ただ全く〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)における〕神の啓示の実在の中で、そこからはじめて、そこからして、〔その<客観的な>「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)における〕神の啓示の可能性の中で、そしてその可能性の〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と><主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)<と>その中での主観的側面としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」(<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」)の枠組みにおける〕様々な条件の中で理解されなければならない。人は、神学においては、まさにすでにただ信仰の確実性でもってはじめた時にだけ、また信仰の確実性でもって終わることができる」、ちょうど「人は、すでにただ洗礼でもってはじめた時にだけ、また洗礼でもって終わることが許されるように」。「説教の無条件的な出発点と目的は、新約聖書において聞く啓示、和解、『インマルエル、神われらと共にいます』」である。したがって、われわれは、キリストからすべてのことを期待しなければならない。このことが、キリスト教的終末論である。キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない。ここで説教は、感謝と確信と共に期待の態度と行動である。第一の来臨〔「キリストの誕生、受難と死および復活」〕と第二の来臨〔復活されたキリストの再臨、終末、「完成」〕との間〔「聖霊の時代」、中間時〕に、説教と同時にキリスト者の生活全体とがある。説教は、説教者の自由事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「第二の形態の神の言葉」である〕<聖書への絶対的信頼>に基づく、聖書講解であることの義務を負っている。したがって、説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて生きる人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報が不足している〕と考えるようなことがある限り、彼は、その信頼と信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていないのである。福音は、われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にあるから、われわれは、思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを、聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない」(『説教の本質と実際』)と思惟し語るバルトに対して、「バルトの神の言葉の神学においては人間の経験の位置づけが弱いから、人間の経験〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられて生きる人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報〕を尊重すべきである」と主張するルドルフ・ボーレンの彼によって対象化され客体化されたところの「神律的相互関係」の概念に依拠して、聖霊や聖霊の言葉を人間の自由事項として、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と聖霊や聖霊の言葉を恣意的独断的に<実体化>させて思惟し語った日本基督教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健の思惟と語りは、まさに「『自然』神学」の段階における思惟と語りである。その証拠は、小泉が、教会の宣教の一つの「補助的機能」としての神学研究において、現存する<大学>があくまでも自然科学と人文科学の<自由な>学問と研究の場であるにも拘らず、そのようにして現存する<大学>社会から自覚的に対象的になって距離を取らないまま、恣意的独断的に「神学の優位性」を留保しながら「人間の経験」や「人間学」との<混合神学>を目指した時、その<大学>社会における神学は、<必然的に>、人間学に吸収されていくことになる、「『自然』神学」になっていく、「人間学の後追い知識」としての「混合神学」、「人間学的神学」になっていく――「すべての大学社会の神学」は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学である」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。したがって、<大学>社会の神学においては、その<大学>社会から自覚的に対象的になって距離を取らないならば、神学が人間学に対して優位に立つことは全くあり得ない。したがって、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で述べているように、そのような神学は、ただ<人間学そのもの>となっていくだけである。そのような神学における問題点は、<大学>社会の神学であろうとするために、神学が教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)であるにも拘らず、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を堅持しそれに連帯し連続しようとしないという点に、恣意的独断的に排除していこうとする点にある。さらに、小泉の思惟と語りの問題点は、教会の宣教およびその一つの「補助的機能」としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項なのであって、われわれ人間の決定事項ではない」、したがって、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」ということに対する認識と自覚が全く欠けているという点にある。したがって、<大学>社会における神学者・小泉の思惟と語りにおける「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証されているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神〔すなわち、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神ではなく、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」〕から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!〔すなわち、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚する啓示神学ではないところの、一般的啓示、一般的真理、「存在の類比」に立脚する「『自然』神学」としての人間学以外の何物でもない!、また「聖書解釈における前期ハイデッガー哲学に基づく絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理」(『ルドルフ・ブルトマン』)に依拠したブルトマン(その学派)に対して、前期と後期の全体で思惟し語ったハイデッガー自身は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる〘類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界に過ぎない〙存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〘聖書の中で証されているキリストにあっての神としての〙神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と根本的包括的な原理的な批判〘「揶揄」〙をなしているように、ブルトマンのそれは、「人間学の後追い知識」としての「人間学以外の何物でもない!」のである〕』……」(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。
「そのような訳で、われわれが、まず第一に、神が人間のために〔神性を内在的本質とするところにのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子との交わり」としての聖霊自身の業である〕<啓示されてあること>の実在について語らなければならず、ただそこからだけ出発しなければならない時」、「神の言葉に対して信仰と服従を捧げる人間の現実存在、換言すれば人間の間に神の言葉に対する信仰と服従が存在するという事実は〔換言すれば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での、すなわち<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる(換言すれば「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる)「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の事実、そしてそれからその<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持しそれに連帯し連続するという仕方でなされる、「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環におけるイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す服従が存在するという事実は〕、すなわち〔神性を内在的本質とするところにのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神の啓示の行為に対する人間の側でのその対応全体は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)――この〕啓示の客観的実在、神の受肉した言葉としてのイエス・キリストと同様に、真剣な意味で、<聖書的啓示証言の内容>であるということである」。「聖書的な啓示証言は、われわれに対して、確かに〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)――この〕イエス・キリストにあっての神の〔「第二の存在の仕方」における〕現実存在と業、行為、言葉を証ししているが、それはまた(中略)〔「第二の存在の仕方」におけるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして〕神の言葉が人間のところのに来ること、神の言葉がどのように人間のところに来るのかということ、それ故に人間は〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持しそれに連帯し連続して「キリスト教に固有な」類の時間累積をなしていくという仕方で、「神への愛」<と>「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくことによって、〕神の言葉の聞き手および行為者となるということも、いやまさにそのことこそ、換言すれば〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕イエス・キリスト、神の子は多くの兄弟を得、したがって〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なるなの<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」子の父としての〕その永遠の父は多くの子供を持つようになり給うたということも、いやまさにそのことこそ、また恵みの遂行とということも、いやまさにそのことこそ、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕聖書的な啓示証言の、それであるから〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕啓示そのものの構成要素、主要な直接的な不可欠な仕方で事柄に属している構成要素であるということを証ししている」。「われわれは、われわれ自身に向かって、ただ単に〔「自己自身である神」としての〕『<神>がわれわれと共に』いますということを<語らしめなければならない>だけでなく、またそのことの中に含まれていることとして、〔それから「われわれのための神」としての〕『神が<われわれ>と共に』いますということを語らしめなければならない」。「このことも、われわれは、自分で自分に向かって語ることはできない」。聖書の中で証されているキリストにあっての神としての「神が、われわれのもとで、われわれの中で、〔「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)としての、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」における「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊自身の業である〕<啓示されてあること>も、〔それが<客観的な>「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づくものとして、〕実際に〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における<客観的な>「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)としての〕啓示としてわれわれのところに来、〔<客観的な>〕啓示の中に含まれている」。したがって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊自身の業、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)としての〕「<啓示されてあること>について、抽象的ニ考察することはできないし、いかなる恣意的な決断も下され得ない」。それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、すなわち「<啓示されてあること>がわれわれにとって〔<客観的に>〕存在する時、われわれはそのことを、ちょうどそのことの<客観的な>前提である神からしての啓示の出来事について聖書がわれわれに語っていることを、われわれがそのまま聞いて受認しなければならないように、そのまま聞いて受認しなければならない」。「神と聖書的な人間は、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認も、神人協力、神人協働、神人共働もという〕同労者であるような関係ではなく、主が下僕に向かって相対して立つように、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父としての〕創造者が被造物に向かって、また〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身としての〕和解者が恵みを受けた罪人に向かって、また〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊としての〕救済者が自分の救済を待ち望んでいる者に向かって相対して立つように、また〔聖書の中で証しされている「啓示の<秘義>〘「すなわち、クリスマスの<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>〙」は、その「<しるし>〘すなわち、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>」(「第一の条項」)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>」(「第二の条項」)という「クリスマスの奇蹟」〙を通して語って来て聞かれる」ところの〕聖霊が処女マリヤに相対して立つように、相対して立っている」。「また、<この>聖書的な人間について証言している聖書は、神のみ前にある人間について、したがってわれわれに対して〔聖霊自身の業である〕神が<啓示されてあること>〔それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)〕について語らなければならない限り、聖書は、われわれに対して、事実ただ単に神についてだけでなく、また人間についても全く明確な何かを語らなければならないのである。〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりである」聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において〕われわれ人間に対して働きかけ給う聖霊は、いうまでもなく〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神である。それであるからまた、われわれに対して働きかけ給う聖霊の業は<啓示>であり〔何故ならば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。それ故に子も聖霊も、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする<三位一体の神>であるということからして、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)におけるその神の「第三の存在の仕方」における聖霊の業は、神の「第二の存在の仕方」における啓示であり〕、〔「啓示されてあること」、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)としての〕そのような聖霊の業の<認識>は、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる〕<啓示>認識〔、「啓示信仰」、「信仰の認識としての神認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕であり、したがって〔「Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下ということからして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(聖霊自身の業である「啓示されてあること」)の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証されているその〕啓示<証言>を認識することに基づいている。このような訳で、われわれは、聖書とは違う認識根拠からして、何かを知るようになるであろうということを期待することは許されない。また、われわれは、この点においても、認識の源泉としての<聖書の十分性>を見て取らなければならない。また、われわれは、<まさに>神のみ前にあっての人間に関して<こそ>、聖書でもって十分であるとして受取るように、聖書によって拘束されている。われわれは、この聖書からして、……宗教的な人間論やキリスト教的な人間論を考え出してゆくことに頼らされてはいない」。バルトは、『啓示・教会・神学』において、次のように述べている――「聖書は、旧・新約聖書における預言者および使徒の言葉〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)としての「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」〕<と>霊〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、霊は、その<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与える霊である。「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神言葉」である〕キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。この<聖霊の注ぎ>により聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示〘<客観的な>「存在的な<必然性>」〙の要素としての霊〘<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」〙の本質は、キリストにある自由を意味している」〕としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わる。この聖書は、先ず第一義的に優位に立つ原理であるイエス・キリストと共に、〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会の宣教における原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である。何故ならば、〔「第二の形態の神の言葉」である〕預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教である聖書こそが、〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会に宣教を義務づけているからである。したがって、聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。
「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、「聖書が、〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)に対して、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)という〕この側面に向かって決して沈黙していないということを、旧約聖書の中では律法と預言者が向かい合って存在しているという事実が、また新約聖書の中では福音書と使徒の書簡が向かい合って存在しているという事実が、具象的に示している。まさに旧約聖書の中では、確かにまず第一に、預言者たちによって代表される主観的な要素が、正典のあの三部を通して、啓示を受取った教会のことが、そして教会の中でイスラエルの困窮と希望によって動かされた一人一人の信者のことが、実に様々な文学的表現様式を用いて表現されている諸書を通して、さらに強められている。最大の自明性をもってユダヤ会堂もキリスト教会も、正典結集に際して、〔<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」としての〕この主観的な要素を、〔「第二の形態の神の言葉」である〕啓示証言の、したがって〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕啓示そのものの本質的な構成要素として考慮に入れた。したがって、人は、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ということからして、〕この主観的な構成要素が、客観的な構成要素に相対して、従位的な立場に立つものであるということについて、原則的に語ることは許されない〔その<客観的>要素と<主観的>要素との全体性において語らなければならない〕」。「このことからして、ローマ・カトリックのミサの第一部において、使徒書よりも福音書の方を著しく強調していることは、従属説的な思惟の動きを思わせる疑わしい慣行である。また、十八世紀以降プロテスタント神学を動かしてきた『イエスとパウロ』をめぐっての論争は、ましてや『イエスかパウロか』をめぐっての論争は、苦痛のものであった。(中略)新プロテスタント主義の、古代教会の三位一体およびキリスト論的教義の関心事と相対的に違った仕方で、ただ単に人間との関係における神だけでなく、また神との関係における<人間>をも見て理解しようという関心事は、……正当な関心事であったし、今もそうであるが、しかし、〔「シュライエルマッハーのように、人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事実にあるヘーゲルの強力な痕跡を持った」(『ヘーゲル』)ところの〕新プロテスタント主義は、〔「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」ように、〕聖霊の<神性>を忘れてしまい、その結果、〔人間の自由な内面の無限性、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟としての〕人間の自由ということが、〔人間中心主義的な〕『人間からの自由』になってしまうような仕方で、人間の自由に対して関心をよせたのである。したがって、神からの自由は、結局はすべてを支配する『人間からの自由』の単なる規定に過ぎなくなってしまった」。聖書的な証言の内容を形成している人間というものが本当に大切だったわけではなく、むしろ〔生来的な自然的な〕自分自身を自由に処理することができる故に、〔生来的な自然的な〕自分自身を理解している<人間それ自身>が問題であった神学〔新プロテスタント主義神学、近代主義的神学、自由主義的神学〕は、まさに聖書的な人間についての特別な証人、福音記者と違って使徒が確かにそうであったような聖書的な人間についての特別な証人と衝突せざるを得なかった〔すなわち、新プロテスタント主義神学〔近代主義的プロテスタント主義的神学、自由主義的プロテスタント主義的神学〕は、「福音書を……啓示の<秘義>のないキリスト論とならざるを得ないような批評的な眼鏡を通して読むように強いられたばかりでなく、まさに新約聖書の書簡の部分、『使徒』を、すべての批評的な撤廃作業の後に福音書の中で残った『史的イエス』を強調しつつ、啓示の証人として、全面的にあるいは部分的に資格を剥奪することができると考えたということである」。もしも<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みを後景へ退けたり排除したりするならば、その時には、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。〘生来的な自然的な〙人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」から、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)、それ故にその思惟された「無限者」(神)は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではなく、類的機能を持つ自分の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された自分自身の意味世界・物語世界、「存在者」としての「存在者レベルでの神」に過ぎない〕」。まさにこのところで、新プロテスタント主義〔近代主義的プロテスタント主義、自由主義的プロテスタント主義〕全体は役に立たなかった。ルターは、罪人の義認の実在に合わせて自分の神学を、またカルヴァンは同じ罪人の聖化の実在に合わせて自分の神学を方向づけたのであるが、換言すればちょうどかつてアタナシウスが自分の神学を、一面的に、受肉の実在に対して関心をよせつつ方向づけたのと同じように、一面的に、罪人の義認と罪人の聖化に関心をよせつつ自分の神学全体を方向づけたのであるが、宗教改革者たちの関心のこの一面性は、それの内的および外的な必然性を持っており、またそのことと結びついた危険は、聖霊の<神性>が、彼らが自分たちの関心事を追い求めた際の自明的な前提であった限りにおいて、表面化してくることが避けられたのである。この聖霊の<神性>という自明的な前提こそが、ルターの義認論とカルヴァンの聖化論を、かつてアタナシウスのキリスト論がそうであったのと同じ意味で、啓示の<秘義>の宣教たらしめたところのものである。したがって、もしも人が、宗教改革の特別な教義を<主観的な>教義と呼びたいのであれば、ただそれらの教義の特別な対象が、キリストの中で出来事として起こった人間に対する神の自由というよりも〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)というよりも〕、むしろまさに聖霊〔――神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である聖霊自身の業である「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」として聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――、この<客観的な>「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「<聖霊>の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕の中で現実のものとなった<神に向かって自由である神のための人間の自由>であったという意味においてである」。
そのような訳で、「われわれが、神の前に立ち、神の啓示を受け入れる人間について、聖書はどのように証ししているかと問いつつ聖書に向かう時、聖書的な人間についての特別な証人である使徒が証ししている聖書的な啓示証言の内容を形成している<聖書的な人間>は、先ず神の選びと召命を通して、彼が神の言葉を聞くということを通して、聖霊の証言を通して〔すなわち、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みを通して、〕、ただ単に不可視的な内的な仕方で抜きん出ているだけでなく、彼のところに来る啓示の実在に関して確かに不可視的であり内的であり続けるすべてのことにも拘らず、同時にまた全く<可視的な外面的な仕方で>抜きん出ているということが基本的なことである。言い換えれば、聖書的な人間についての特別な証人である〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕使徒が証ししている聖書的な啓示証言の内容を形成している聖書的な人間は、<特定の>歴史的な場所に立っている」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における「啓示は、ただ実在の時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間から『攻撃』された〔「否定された」、「失われた」、「非本来的な」〕時間であるわれわれの時間の中に入ってくる啓示としてだけ、〔ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられた〕<あらゆる>時間の人間に関わり持つことができるところの、それ自身の時間を持っている〔したがって、「神によって造られた時間」、「実在の時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間、われわれのための神の時間」<と>と「罪におちた人間によって惹き起こされて生じたわれわれが知り持っている時間、罪にそまった時間、われわれの時間」との間には、徹頭徹尾無限の質的差異がある〕。〔<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)としての〕この啓示の客観的な特殊性に対して、今や啓示の主観的な特殊性〔<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>)」〕が対応している。詳しく言うならば、啓示を受けた人間は、旧約聖書に従えば、神が民と契約を結ばれ、その民をご自分の裁きと約束の下に置き給うた〔「神の啓示は、裁きであることによって、恵みである」〕イスラエルの民に属している。また、啓示を受けた人間は、新約聖書に従えば、その中に本来的に行動する主体として、教会の中に集められたすべての肢体がそれぞれ特定の課題と機能を持ちつつそれと結びついている頭として、イエス・キリストが現臨し給う教会〔すなわち、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す「第三の形態の神の言葉」である教会〕に属している。人は、この時、この所属性が、民とするないしは教会とする、すなわちそれらの人間を啓示を受けた人間〔啓示の受領者〕とするというふうに言うことはできない。ただ神のみが、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で〕彼らを啓示の受領者とし給う。〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神は、その所属性に拘束されれ給わない。何故ならば、われわれは、旧約聖書の中で与えられている場所においても、新約聖書の中で与えられている場所においても、繰り返し、……どうみても全く啓示の受領者であると見えない人々を見出すからである。いずれにしても、旧約聖書の中で、繰り返しその所属性の場所から<離れたところ>で、イスラエルの民の<外部>で、神の啓示のまことの受領者となったように見える人物が現れてくるのである。しかし、この最後の可能性は、どちらかといえば、矯正を意味しているように見える。神を誇る代わりにその所属性を誇るような者を限界づけ辱しめるために、その所属性の中にありながらそれにも拘らず啓示の受領者とならない者たちに対する裁きの<しるし>として、容易に忘れられ踏みにじられた神の恵みの自由を表示するために、少なくとも旧約聖書の場所に対して繰り返し全く別な場所に立ちながら〔旧約聖書の場所から対象的になって距離を取りながら〕、〔神語り給う故に、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で〕神の語る言葉を聞き、神に聞き従った異邦人が出現しなければならないのである。新約聖書の中で、そのような異邦人が、イエスがメシヤであることの予期しなかった告白者として登場する時、そのことは、イスラエルに対しての旧約聖書的な矯正の継続の中で起こることであって、教会に対しての矯正として起こることではない。教会は、異邦人が付け加わってくることによって限界づけられるのではなく、むしろすべての膝が身をかがめるべき方〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である子としてのイエス・キリスト自身〕の体として、確認され啓示されるのである。「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」は<実体>ではないから、「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて神語り給うが故に神語り給うことを「聞くことによって、常に新しく決定される」。したがって、「第三の形態の神の言葉」である「まことのイエス・キリストの教会」は、あくまでもイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、すなわち「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)と<客観的な>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」としてのその主観的側面である<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」を包括した「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を堅持しそれに連帯し連続して、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、<絶えず繰り返し>、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」共同性)<となる>ことによって、「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」共同性<である>というそれである。「何人も神の子供であることなしに聞くことはできないが、同時にまた何人も、聞くことなしに、しかも繰り返し聞くことなしに、神の子供であることはできない」。何故ならば、「神に愛された、聞くイスラエル、聞くイエス・キリストの教会、聞く民、聞く神の子供たち」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、換言すれば<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で、おのずから必然的に、絶えずくり返し、その「愛の命令の成就に向かって進んでゆく」からである。「イエス・キリストの中で、神は、彼らのために味方してい給う。したがって、イエス・キリストの中で、彼らは、命令を聞くことによって、愛するものとしての彼ら自身の未来を、彼らが律法を成就する成就をつかむのである〔「神への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請を成就する成就をつかむのである。「勝利の福音としてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、われわれ人間を、罪と死の法則、汝斯く斯くなるべしという要求から、生命の御霊の法則、汝斯く斯くならんという約束へと回復せしめる、遂行せよと求める要求から、信頼せよと求める要求へと回復せしめる。したがって、われわれ人間は、『生命の御霊の法則』によってイエス・キリストにあって解放されたのであるから、われわれが己の解放を与えられるためには、ただイエス・キリストに固着し得るだけである」(『福音と律法』)〕」。「そのことは、言うまでもなくイスラエルも、それが、教会への指し示しおよび預言者である限り、旧約聖書的な矯正を通して、イスラエル的教団とイスラエル的民との混同に対して限界づけられるというよりも、むしろ確認され明らかにされるのと同様である。このような訳で、例外は、結局通則を確認している。すなわち、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における〕神ご自身が、そして神のみが、〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で〕人間をその啓示の受領者とし給う。しかも神は、そのことを、ある特定の歴史的な場所の中でなし給う。そして、その特定の歴史的な場所こそ、旧約聖書と新約聖書を総括しつつそう語ることが許されるであろう〔「福音書の中ではすべてのことが受難〘十字架、死〙の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難〘十字架、死〙の歴史を超えて〘すなわち、「まことの現在」に包括された「まことの過去」を超えて〙甦り、復活の歴史に向かって進んでいる〘すなわち、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」に向かって進んでいる〙。すなわち、旧約〘「神の裁きの啓示」、律法、「<汝斯く斯くなるべし>という要求」、「<遂行せよ>と求める要求」、死、神的な否〙から新約〘「神の恵みの啓示」、福音、「<斯く斯くならん>という約束」、「<信頼せよ>と求める要求」、生、神的な然り〙へのキリストの十字架でもって終わる古い世〘・時間、「まことの現在」に包括された「まことの過去」〙は、復活〘「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〙へと向かっている」。復活されたキリストの再臨、終末、「完成」までの「聖霊の時代」、中間時における、「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」が、「斟酌世界の中に、神によって造られた特別のしるしづけられた……決定的に排他的に……神が人間をその啓示の受領者となし給う……彼らも当然服せしめられている神の裁きを指し示す……〘特殊的な〙イスラエル的な民族教団から出現する<普遍的な>」〕<教会>という場所である。人は、〔聖書の中で証しされている〕この真理を無視して通り過ぎることはできない。もっと尖鋭化していうならば、そして適当ニ斟酌シツツ理解するならば、〔聖書の中で証されているところによれば、〕イエス・キリストに相対して、まず第一に〔個体的自己としての〕信者がおり、それからこれらの者から形成されて教会〔共同性〕が存在するのではなく、まず第一に〔「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会〔共同性〕があって、それからその教会〔共同性〕を通して、その教会〔共同性〕の中で、〔個体的自己としての〕信者が存在するのである」。聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、確かに教会に対しても、ちょうどユダヤ会堂に対してそうであったように、全く拘束されてい給わない。しかし、神の啓示の受領者たちに関しては、〔個体的自己としての〕彼らは、〔「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会〔共同性〕が存在し、〔個体的自己としての〕彼らが教会〔共同性〕の中に存在することによって、〔個体的自己としての〕彼らが現にあるところの者であって、〔「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会〔共同性〕<なし>に、教会〔共同性〕の<外>で、〔個体的自己としての〕彼らが現にあるところの者ではないということである。その際、〔「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕『教会』〔共同性〕ということで、ただ単に神がキリストにあってご自分のものと呼び給う者たちの内的な不可視的な共に属しあっている所属性が理解されなければならないだけでなく、むしろまた〔個体的自己としての〕彼らがキリストにあって神のものであることを〔人間の類の時間性、人間の類の時間累積としての人類史、世界史、歴史における〕時間の中で聞いたしその聞いたことを告白し、それに対して公に責任を取る者たちの外的な可視的な共に属し合っている所属性が理解されなければならない。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――における〕啓示を受取るということは、その二重の共に属しあっている所属性の内部で起こるのであって、決してその外部で起こるのではない」。バルトは、『バルトとの対話』で、次のように述べている――「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)、この聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、ご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ。……〔「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠より選ばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」。イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。因みに、<宗教>的対立と<政治>的対立の問題が併存していない完成された法的政治的に信教の自由が保障された政教分離の近代主義国家(自由主義国家)においては、現実的な社会の中で具体的に生き生活する(市民社会的な生活、個別的私的現実的な生活をする)個体的自己としての人間は、社会的に現実的に解放されていなくても、すなわち現実的な経済的社会的な不平等や格差があっても、<天上>の観念的な<非日常>性における法的政治的共同性における共同的公的観念的生活、法的政治的な観念の共同性によって統一された公的共同性の一員、公民としては、観念の共同性を本質とする法の中でだけ平等であり得る。このような訳で、<宗教>的対立と<政治>的対立の問題が併存していない完成された法的政治的に信教の自由が保障された政教分離の近代主義国家(自由主義国家)における国家の問題は、現世的問題、すなわち法的政治的な近代主義国家(自由主義国家)の批判の問題となる。法的政治的な観念の共同性を本質とする自由主義国家(近代主義国家)は自由主義国家として自由であるが、その時、現実的な社会の中で具体的に生き生活する個体的自己としての人間は、ただ恣意的にだけ自由であり得るに過ぎない。第一義性・価値性は個体的自己としての<こちら側>にあるにも拘らず、その本来的な第一義性・価値性を、こちら側、個体的自己としての人間の側に<自己還帰>させることができない時、その本来的な第一義性・価値性は、<向こう側>、すなわち自らが疎外し外化した国家<共同性>の側に移行しまうことになる。ここに、国家<共同性>の問題はある。例えば、自分自身の土地を手放したくなくても、そして別に現実的に具体的な他者に迷惑をかけていなくても、国家<共同性>(具体的には、政府)の都合で、国家<共同性>(具体的には、政府)を第一義・価値として、公序良俗の名目等で、土地収用法に基づく行政代執行による土地の<強制>収用が行われる、また個体的自己としての自分自身は望まなくても、そして別に現実的に具体的な他者に迷惑をかけることはないにも拘わらず、国家<共同性>(具体的には、政府)の都合で、国家<共同性>(具体的には、政府)を第一義・価値として、番号法に基づくマイナンバーカードの義務化も<強制>的に行われようとしている、沖縄の米軍基地問題もいつも第一義的に当該沖縄<県民主導>で解決を目指さなければならないにも拘わらず、当該沖縄県民主導ではなく、日本国家(具体的には、徹頭徹尾米国の核の傘下で米国に追随する日本政府)と米国(具体的には、政府)主導で行われていく等々。バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1 「和解論の対象と問題」』で、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に〔「啓示ないし和解の実在」そのもとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教団において、〔<客観的な>)「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>)「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>)「存在的な<必然性>」、その〕イエス・キリストの〔「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、その〕聖霊の業として遂行される」、「イエス・キリストにおける『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の中心は、〔教会共同性、教団共同性のような〕狭い共同体からその事実をまだ知らぬすべての他の人々、広い共同体に向かっての運動において、〔全世界としての、教会共同性、教団共同性だけでなく、世の全ての人々に対して〕完全に開かれている」と述べている。また、バルトは、『カール・バルト著作集 4』「感謝と表敬――デンマークとの接触」および「キルケゴールと神学者」で、先ず以てキルケゴールから、「キルケゴール・ルネサンス」に参与した処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の著作において、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(無限の質的「対立、矛盾、深淵」)を固守するという<方式>を獲得し、その<方式>を堅持し続けたし、「信仰としても、文学としても、思想としても、軽薄なあまりにも安っぽいキリスト教的性格と教会的性格に対して、福音の絶対的要求と、自分自身の決断において福音に従う必要性を主張した」キルケゴールを評価しつつも、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」からして、われわれは、<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持しそれに連帯し連続し、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリスト活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことを通して、「神の自由な恵みの福音を述べ伝え説き明かすことが問題であるとすれば、神の民、教団、教会、その奉仕と宣教の任務、その政治的・社会的課題を退けて、<単独者>と<個人救済主義>を強調するキルケゴールの言説をそのまま受け入れることはできなかった」と述べている。
「メシヤの機能」――「メシヤは、<おのれの民>をそのもろもろの罪から救うであろう(マタイ一・二一)、<わが民イスラエル>を牧する者となるであろう(マタイ二・六)、この民イスラエルに対して、この救うことと牧することが現実となるために、イエスの招きは発せられる、『悔い改めよ、天国は近づいた』(マタイ三・二)。もしも人が山上の説教のはじめの部分マタイ五・二以下で、……こころの貧しい人たち、悲しんでいる人たち、柔和な人たち等々、一言でいえばあのシメオン(ルカ二・二五)と共に『イスラエルが慰められること』を待ち望んでおり、そのようなものとしてまことのイスラエルである人々からなる民が、さいわいであるとして祝福され呼び出され呼び集められているということに注意を払わないならば、……人は山上の説教のはじめの部分を理解することはできないし、そこからして山上の説教の内容全体を理解することはできない」。その時、人は、『福音と律法』によれば、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解されたローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等のギリシャ原典「イエス・キリスト<の>信仰」(「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念と同一である平和)そのものである「イエス・キリストを律法の目標としないのであるから、その律法の目標は、人間的な自然法や抽象的理性や民族法等々という形に転倒されてしまう」ことによって、「神の要求を、人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて、人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』をつくり上げる。このような神に対する熱心さの無知は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の「欲求」・「自主性」・「自己主張」・「自己義認」もという「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」に基づいており、〕神の要求を、恣意的に曲解された十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告に過ぎないものへと変える。したがって、それは、罪に勝利を収めさせる不従順・虚偽となる。何故ならば、それらの無数の儀文は、偶像崇拝・神冒瀆を生じさせるからである。その中で、ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜し、ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行い、ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進し、ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する。まことに空の空なるかな、である。それらすべてのことが、一体何だろうか」――。「神の恩寵が告知され、証しされ、宣教される時、私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音を内容とする福音の形式としての律法が建てられる。何故ならば、この律法がなければ、われわれ人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には生命に導くべきもの、神の恩寵を証しするものという事実において、福音を内容とする福音の形式である」。「神の律法(神の人間に対する要求)は、福音の中核であるイエス・キリストが、律法を満たし、すべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならないから、神の恩寵に対する素直な感謝の応答、告白、証し、宣べ伝えにある」。このような訳で、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――この「イエスの招きの結果は、〔<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」(「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の故に、〕はじめからして、多かれ少なかれ確信させられ信頼しているあらゆる種類の信奉者たちではなく、むしろ突然地から湧いてきたような一二の群れ――すなわち、それら一二人の中でイスラエルの一二部族が可視的になってくるのであるが、その上に〔すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」であるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(「聖書」――この「聖書が教会に宣教を命じている」)、この使徒たちの上に〕イエスがご自分の〔「教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo」としての「第三の形態の神の言葉」である〕教会を建てようとなさったところの、その一二人の群れの中で存在している基礎、岩(マタイ一六・一八『わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる陰府の力もこれに対抗できない』)〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「聖書」〕の現実存在である。〔その「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕<彼らに対して>、主は、わたしは世の終わりまでいつもあなた方と共にいるであろう、と約束し給う(マタイ二八・二〇)。〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」(その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」)としての「第二の形態の神の言葉」、聖書の現実存在である〕<彼らに対して>、主は、ご自分の権威を与え給う(マタイ・一〇・一)〔したがって、この「第二の形態の神の言葉」である「聖書」は、「イエス・キリストと共に、直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」<と>「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性」――すなわち「自由」<によって>「賦与され装備された権威と自由を持つところの第二の形態の神の言葉」(「啓示との<間接的>同一性>〘啓示との区別を包括した同一性〙」において存在している「啓示の<しるし>」)であり、それ故に「第三の形態の神の言葉」である「教会に宣教を義務づけている第二の形態の神の言葉」として、ある歴史的現存性におけるその時代と現実に強いられて存在する「第三の形態の神の言葉」である教会(すべての成員)およびその「一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」である〕、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕<彼ら>を受け入れ(マタイ一〇・四〇)、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕<彼ら>に聞き従う者は、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕わたしに耳を傾ける者である、それ故にⅠコリント3・10-11、エフェソ2・14以下ということからして、『わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「聖書」を拒み、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としない者は〕、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕わたしを拒むのである。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕わたしを拒む者は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」である〕わたしを遣わされた方〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」〕を拒むのである』(ルカ一〇・一六)、〔「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持しそれに連帯し連続する「第三の形態の神の言葉」として、〕二人または三人が〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の実在>」としての「使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言・宣教・説教」である「第二の形態の神の言葉」(聖書)の中で証しされている、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕<わたしの名>によって集まるところには、<わたしも>その中にいるのである(マタイ一八・二〇)、と。〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である〕主は〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕彼らに対して約束し給う。そして、<彼らに対して>聖霊〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としてのかみの自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第三の存在の仕方」――すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である「<聖霊>の注ぎ」〕が約束される(使徒行伝一・四以下)、『みんな一緒に集まっていた』<彼ら>の上に〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である『みんな一緒に集まっていた』使徒たちの上に〕、聖霊が、ペンテコステの日に実際に注がれるのである。そのことには、〔「聖霊の注ぎ」により〕彼らが〔すなわち、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である『みんな一緒に集まっていた』使徒たちが〕、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」――この〕言葉の賜物を受け取り、あらゆる国々から来た人々が彼らの語ることを理解することができるという効果を伴っていた〔「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である。この聖霊の注ぎにより聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に死から生命への方向転換におかれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は、キリストにある自由を意味している」。ここで「キリストにある自由」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、われわれが、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づくところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしての<キリストの福音を現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリスト活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す自由である〕」。『わたしは、彼らのためばかりでなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、その人々がみな一つとなるように、お願いします』(ヨハネ一七・二〇以下)と言われているように、その日彼らに三千人ほどの者が、仲間として加わる」(使徒行伝二・一)。すでに新約聖書の第一部〔福音書、使徒言行録(使徒行伝)〕の中で事情はそのように見えるが、ましてや〔「もしも人が、その中で語られ聞かれる厳格に閉じられた円を見ないならば、手紙の著者に関しても、受領人に関しても、ただの一言も理解することができない手紙」である〕新約聖書の第二部〔書簡〕では、なおさら事情はそうである。ここでは、ただ決定的な一つの箇所、ガラテヤ一・一五以下に出てくるパウロの回心について述べている報告を思い出すだけで十分である。……パウロは、ちょうど預言者エレミヤのように、母の胎内にある時から聖別され恵みをもって召された者である。神がご自分のみ子を彼の内で啓示し給うた時、彼は一人のキリスト者になるのであるが、しかし、そのことについてはそこでは何も語られておらず、彼がみ子を異邦人の間に宣べ伝えるべきことについて語られている。それであるから、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である〕パウロは、〔その「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会の生命活動の中で、自分の機能を果たしつつ存在するのであって、それ以外の仕方では存在しなかったし、また存在することもない……。パウロは、〔Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下ということからして、〕以前ユダヤ人であった者とかかわるかあるいは異邦人であった者とかかわるかに拘わらず、自分の教会に対していつもその同じ前提の下で語りかける。例えばローマ一二・三以下、Ⅰコリント一二・四以下、エフェソ四・一以下、Ⅰペテロ二・五以下で述べられているように、比較的稀にしかはっきりとあからさまさにそれとしての教会そのものについて語られていないという事実こそが、かえって自明的に、それはそれ自身天上における存在と地上における存在のように全く違っているにも拘らず、〔Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下ということからして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕キリストにある存在が〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環おいて、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す「第三の形態の神の言葉」である〕教会の中での存在と事実的に単一性〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性〕の中で見られ理解されているかを示している」。「ルターも、小教理問答書の中で、『聖霊は福音によってわたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕のうちにわたしをきよめ支えられる』という命題を、その後すぐ続いている命題を通して、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会と厳密に関係づけた。『それは、〔「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この、<客観的な>「存在的な<必然性>」の中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」に関わる、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である〕聖霊が、地上の全キリスト教会を召し、集め、照らし、きよめ、そして唯一のまことの信仰のうちに、すなわち〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この、<客観的な>「存在的な<必然性>」に関わる、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕イエス・キリストのみ手のうちに保たれるのと同様である』。それから、〔「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持し、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、それに連帯し連続する「第三の形態の神の言葉」である〕『<そのキリスト教会において>、聖霊は、わたしとすべての信徒の日毎のあらゆる罪をことごとくゆるし、そして終わりの日〔復活されたキリストの再臨、「完成」の日〕に、わたしとすべての死人を甦らせ、またわたしとすべてのキリスト教徒に永遠の生命を与えられる』。大教理問答書の中でも、聖霊は、どのように何をもってわたしたちをきよめるのかという問いに対して、〔聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕『キリスト教会……によってである。というのは、<まず第一に>、〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中で主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」の基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に関わる〕聖霊が、〔キリスト復活と復活されたキリストの再臨までの聖霊の時代、中間時における〕この世において、特別の交わりを持ち、この交わりが母胎となって、神のみ言葉により、一人一人のキリスト者を生み支えるからであり、そして聖霊は、そのみ言葉を啓示し働かせ、心を照らし点火して、み言葉を捉え受け入れ、それにすがりそのもとにとどまるようにさせ給うからである』。また、大教理問答書に先行する説教の一つの中で、教会教父たちが語っているのと同じ排他独占的な意味で、……汝ハコノ教会ノ中ニいるのであり、聖霊ハ汝ヲ〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の〕福音ノ宣教ヲ通シテ導き入れ給う。『それであるから、キリストを見出したいと思う者は、誰でもまず〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会を見出さなければならない。キリストの忠実な僕たちがどこにいるかを知らずに、どうしてわれわれは、キリストがどこにおられ、キリストを信じる信仰がどこにあるを知ることができようか』。また、カルヴァンンも、キリスト教綱要第四篇第一章で、〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕真ノ教会ニツイテ、……ワレワレハ、コレトノ一致ヲ保タナケレバナラナイ、ナゼナラバスベテノ敬虔ナ人タチノ母ダカラデアル。何故ならば、神ゴ自身ガ父デアリ給ウモノタチニトッテ、〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会ハ『母』ナノデアル」。このような訳で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である「教会が救いにとって必要かくべからざるものであるという命題についてのローマ・カトリック的理解に対するすべての留保にも拘らず、われわれとしては、その命題を拒否したり回避することはよくないのである。われわれが、〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」(聖書)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会、〕啓示の主観的実在を問う時、その命題は、事実われわれに対して守るべき規定として定められている」。
「まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」、すなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――この〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、<間接的に>である」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)における<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」に基づいて(すなわち、「啓示と信仰の出来事」に基づいて)贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるし>の中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>が肉となった>」――「これが、すべてのしるしの<最初の、起源的な、支配的なしるし>である」、換言すれば<それ>は、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界、「存在者」では決してなく、もっと包括的に言えば自然の一部としての自己身体を座とする個体的自己としての全人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた外界としての天然自然)との相互規定的な対象的活動によって生み出された人間化された自然である物資的な観念的な生産物では決してなくて、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」としての<「存在者」>〔「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕である。そして、その「最初の、起源的な、支配的な<しるし>に基づいて、そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ずもって、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における「啓示との<間接的>同一性」(啓示との区別を包括した同一性)において存在しているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、すなわち「第二の形態の神の言葉」(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である聖書が<客観的に>存在している、それから「〔「第三の形態の神の言葉」である〕教会に宣教を義務づけている〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書」を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)」としての「第三の形態の神の言葉」(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である教会の宣教が<客観的に>に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」、「秘義の<啓示>」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「啓示の<秘義>」)、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――この「イエス・キリスト<と>地上における可視的なみ国」、「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>である」。
「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である「<教会>は、イエス・キリストに相対して、決して偶然的な形成物では<ない>」。言い換えれば、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、<主観的な>「認識的な<必然性>」としての聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す形成物である。したがって、既存の教会であれ、新興宗教であれ、その中の「ある人々によってそれらの人々自身の主導権、全権、洞察によって造り出され形成され舞台に上せられた恣意的な形成物では<ない>、すなわち神を告白する共同体がそこに集められることによって、あるいは神に誉れを帰する礼拝形式を打ち立てることによって、あるいは神の真理を表現し宣べ伝える教説を主張することによって、〔神人協力的にあるいは神人混合的にあるいは神人混交的に、〕ご自分を啓示し給う神とそれらの人々にとって最も適当と思われる方法で関係をつけ折合いをよくして行こうとする〔恣意的な〕自由な試みから出てきた形成物では<ない>。したがって、……そのような教会に対しては、誰もが、〔「教会ノ外ニ救イナシを……適用」しないで、逆に、〕そのような教会の外においては救われる可能性〔そのような教会の外に救いあり〕があることを裏づけるために、ただ単に〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の枠組みの中での「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えることができる〕神の自由な恵みを引合いに出す権利を持っているだけでなく、またそのようにすべき義務を、しかも信仰的義務を持っているであろう。〔何故ならば、〕そのような教会は、〔「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、」聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、まことの教会<となる>ことによってまことの教会<である>教会、〕啓示の主観的実在と何らかかわりがない〔からである〕。〔したがって、〕率直に……そのような教会は、実際に教会でも何でも<なく>、むしろ罪の産物、教会の中での堕落の業である〔新興宗教的なそれはもちろんのこと、既存の教会を含めて、全世界に現存する教会の中には、そのような教会は、ごまんとあるのではないであろうか。しかし、そのような現状の中にあっても、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、すなわち<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」からして、必ずや、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、まことの教会となることによってまことの教会であることを目指す教会は、二、三割は残っているに違いないのである〕」。バルトは、『啓示・教会・神学』において、教会は実体ではないから、「教会は、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、「一般的な倫理学」の問題ではなく、それとの混合倫理学の問題ではなく、「正しい行為を問う」特別的な「神学的倫理学」の問題、すなわち全世界としての教会自身と世の全ての人々が聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリスト活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すことにおいて〕人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給う故に聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)〔したがって、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中で、「神の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」に基づいて〕このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ〔ドストエフスキーの『罪と罰』の中に出てくる復活されたキリストの再臨、終末、「完成」を待ち望む<終末論的信仰>に生きたマルメラードフのような〕人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する。〔したがって、そうでない場合は、〕どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、〔トータルな世界認識の方法を持たないまま、また形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、それ故に究極的観点を持たないままただ過渡的観点だけにおいて、また「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を堅持しそれに連帯し連続して、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指す代わりに、また戦争の元凶である民族国家の無化を含めて観念の共同性を本質とする法的政治的なすべての国家を無化することを包括した「み国を来たらせ給え」と祈る共同性を目指す代わりに、また歴史的現存性のその時代と現実に強いられた価値意識(価値観)が多様化してしまった、関係意識が希薄化してしまった、多元主義化してしまった、共同体統括力が衰退してしまった、他者を現実的に侵害しないところで成立する「個人主義」ではなく、他者を現実的に侵害する「利己主義」が蔓延した、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立と争い、利害共同性との対立と争いのある現実的な社会の中で具体的にある自己資質、職業、生活、喜怒哀楽の感情、思想、信条、意志、構想を持って生き生活する個体的自己としての全人間の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)の「完成」そのものである復活されたキリストの再臨、終末、「完成」を待ち望んで「み国を来たらせ給え」と祈る共同性を目指す代わりに、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いているということを凝視せず、それ故に戦争の元凶である民族国家の無化の問題を明確に提起することなく、それ故にまた戦争の元凶である民族国家を前提したまま、形而上学的な一面的な抽象的な思惟と語りにおいて「日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任」を果たすために(日本基督教団「戦責告白」)、そして人間自身が構成した観念の共同性を本質とする法的政治的な「国を愛する」ために(日本基督教団「戦責告白」)、その法的政治的な国家の憲法を守ろうとするだけの一つの<宗教団体>(政治的集団)を目指す、また現実的な市民社会の中で具体的な社会的奉仕をなす多くの慈善団体の中の一つの<慈善団体>(社会的集団)を目指す等々、そういう共同性において〕国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」と述べている。「人は、確かに、……教会があるところ、そこでは、常にまたそのような……もともと教会ではないところの教会も存在しているということも言うことができるし、言わなければならない。言い換えれば、人は、現存する教会の中においては、常にまた、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという不信仰・無神性・真実の罪(『福音と律法』)としての〕罪と堕落の業も起こっているということも言うことができるし、言わなければならない」。「罪と堕落の業も起こっている」そのような教会は、次のような教会である――「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待すること」をしない教会である、また「不毛な反抗や反論を避けて、西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」ことをしない教会である(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、また「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっており、国家は支配であり、文化は支配である」から「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』と言わない」ということを実践しない教会である、また「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならないが、そのことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)〔観念の共同性を本質とする平和<憲法>主義も、木を見て森を見ないという仕方での形而上学的な一面的な抽象的な一つの絶対主義だ。何故ならば、その主義は、現存する世界が経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている中で、戦争の元凶である一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な軍事組織(国軍)を持っている民族国家が世界的な規模で現存していることを凝視しないからである〕。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、〔現存する世界が経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いている中で、戦争の元凶である一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な軍事組織(国軍)を持っている民族国家が世界的な規模で現存している限り、〕戦争の可能性はあけておかなければならない」ことを認識し自覚していない教会である(『バルトとの対話』)、また「ドストエフスキーの書いた〔『カラマーゾフの兄弟』に登場する〕あの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意〔彼の自由な内面の無限性、類的機能を持つ彼の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された彼自身の意味世界・物語世界、「存在者」、「存在者レベルでの神への信仰」としてのそれ〕によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された〔人間自身による〕支配行為〔「支配される者と支配する者へと関係を規定する政治的合理性の形態」(ミシェル・フーコー『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』)〕に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえ〔その人間的にとっては〕どのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)ということを認識し自覚していない教会である。まさに「教会の宣教をより危険なものにしてしまうのは、正しい注釈を、先ず第一義的に優位に立つ原理としての〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕イエス・キリストと共に、教会の宣教における原理である〔「啓示との<間接的>同一性」、啓示との区別を包括した同一性において存在している「第二の形態の神の言葉」である〕聖書に基づくことをしないところにある」、また「正しい注釈を、最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまうところにある」、また「教会が、教会の宣教〔説教と聖礼典(洗礼と聖餐)〕において、福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考えるところにある」、また「教会の宣教の規準を、聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断あるいは哲学、道徳、政治等におくところにある」、また「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとするところにある」、「教会が、ある社会機構あるいは経済機構の保持、廃止に貢献しようとするところにある」(『教会教義学 神の言葉』)。〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」である「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」としての「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この〕イエス・キリストにあって、神と人間の間に啓示と和解が起こったということを、人は、ただ<永遠の神的言葉>〔何故ならば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――である子としてのイエス・キリスト自身は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」子であるからである〕が、そこで〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕肉となったということを見て理解するときにだけ理解する」――『神の人間性』の即していえば、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において〕<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、まことの人間〕もわれわれに出会う」ということを見て理解するときにだけ理解する。「その<永遠の神的言葉>が、そこでわれわれの闇〔聖書においては、「非本来的な、『失われた』時間〔・世〕である」われわれ人間の個、われわれ人間の個の時間性、その人間の個の時間累積としての自己史、個体史およびわれわれ人間の類、われわれ人間の類の時間性、その人間の類(それが「材料、資本、生産力」であれ、「一対の性、一対の性の共同性としての家族」であれ、「言語」であれ、個体的自己の成果の世代的総和)の時間累積としての人類史、世界史、歴史は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、すなわち「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、われわれの時間の中で実在の成就された時間〘すなわち、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〙」から「攻撃された時間〘・世〙、否定された時間〘・世〙、否定的判決の時間〘・世〙である」闇〕の中に光〔「新約聖書の証人たちは、〘「単一性と区別」、区別を包括した単一性において〙、実在の<成就された時間>であるキリスト<復活>の四〇日〘「神の恵みの啓示」、「神の選び」、「福音」、生〙をおぼえる<想起>において、キリストの<死>〘十字架、「神の裁きの啓示」、「神の放棄」、「律法」、死〙とキリストの<受難>の生涯を<想起>する時、光を得たのである。彼らはキリストの<甦り>、キリスト<復活>の四〇日の証人である。そして、彼らは、<この>すでに来た方は、またこれから来たり給う方であることを語るのである」。すなわち、彼らは、その終末論的な信仰において、<復活>されたキリストの<再臨>、<終末>、<「完成」>――すなわち、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「<完成>」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「<完成>」について語るのである〕をもたらす。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「啓示と和解がキリストの神性の根拠ではなくて、〘その内在的本質である〙キリストの<神性>が啓示と和解を生じさせる」ように、〕その<永遠の神的言葉>〔何故ならば、子としてのイエス・キリスト自身は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」子であるからである〕が、そこで解放と純化を意味し、……啓示と和解を実現する。その<永遠の神的言葉>が、イエス・キリストの位格〔様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕という徹頭徹尾独一無比な実在なのである。イエス・キリストに関して事情がそうであるが故に、また〔<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の枠組みの中での、客観的な「存在的な<ラチオ性>」としての聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性」として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその「最初の」直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会に関しても事情はそのようなのである」。Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下からして、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である「教会は、言うまでもなく、イエス・キリストに相対して、いかなる意味でも決して自主独立的な実在ではない。教会の成員としての人間が、彼らの理性、意志、感情の絶対主権性に基づいてキリストに向かって決心して『キリスト者』になったというようなことでは決してない、キリストとの関係で自分が主辞になりキリストは賓辞になったというようなことでは決してない。〔したがって、〕もしもそのようなことが起こったならば、そこでは、まさに現存する教会の中で、〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという不信仰・無神性・真実の罪(『福音と律法』)としての〕罪と堕落の業も起こっているのである。そこでは、その教会自身が、罪の教会、堕落の教会、異端的な教会となってしまったのである。イエス・キリストの教会は、そのような自主独立的な実在の中に存在していない」。Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下からして、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念の>実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会は、実体ではないから、イエス・キリストの神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>――すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)という枠組みの中で、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証されている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すまことの教会<となる>ことによってまことの教会<である>。
(文責・豊田忠義)
論稿が長くなり過ぎてしまったので、「教会は、イエス・キリストからであるということの意味」についての(一)から(四)までの論考は、26日前後に投稿したいと考える。
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